足尾銅山跡
通洞坑
宇都野火薬庫跡
本山坑
本山動力所跡
本山製錬所跡
本山鉱山神社跡
あしおどうざんあと
つうどうこう
うつのかやくこあと
ほんざんこう
ほんざんどうりょくしょあと
ほんざんせいれんしょあと
ほんざんこうざんじんじゃあと
概要
足尾銅山跡は栃木県西部に位置する日光市足尾町に所在する。採鉱・選鉱・製錬の一連の工程を示す施設のほか、生活・経営その他に関わる諸施設・遺構からなる。 天文19年(1550)に発見されたと伝えられるが、本格的な経営は慶長15年(1610)で、慶安元年(1648)からは幕府の御用銅山となった。明治4年(1871)民間に払い下げられていたものを、同10年(1877)、古河市兵衛が買収し、経営に着手して以降大きな転機を迎える。明治16年に本山坑を整備、明治18年(1885)に小滝坑、翌19年(1886)には通洞坑を開口し(完工は29年)、銅山経営の基礎が固められた。20世紀初頭には日本の銅産出量の4分の1を担うほどの大鉱山に成長した。一方、各工程での廃棄物及び製錬時の亜硫酸ガスにより環境への影響が深刻化していった。明治23年(1890)には渡良瀬川の大洪水により下流域の農作物に被害を与えたことが契機となって鉱害問題が顕在化し、明治29年(1896)には「鉱毒予防工事命令」が出され、浄水場等が建設された。昭和31年(1956)に自溶製錬法による製錬が開始されるが、昭和48年(1973)に閉山、輸入鉱石による製錬も昭和63年(1988)に事実上の操業を停止し、足尾銅山の銅生産の歴史は幕を閉じた。
足尾銅山跡は、近世・近代を通じて経営され、特に近代にあっては銅鉱山として国内最大の生産量を誇った鉱山であり、我が国の近代産業の発展及び鉱害とその対策についての歴史を知るうえで重要である。今回条件の整った基幹坑道である通洞坑と銅産出の拡大を支えた火薬類を貯蔵する施設である宇都野火薬庫跡を指定する。
平成26年追加指定・名称変更
足尾銅山跡は近世・近代を通じて採掘・経営が行われ、特に近代においては我が国最大の産銅量を誇ったわが国を代表する鉱山跡である。採鉱(さいこう)、選鉱(せんこう)、製錬(せいれん)の一連の工程を示す施設のほか、生活・経営その他に関わる諸施設・遺構からなる。
平成20年には基幹坑道である通洞坑(つうどうこう)と銅産出の拡大を支えた火薬類を貯蔵する施設である宇都(うつ)野(の)火薬庫(かやくこ)跡(あと)の二つを足尾銅山跡として史跡に指定した。今回、追加指定を行うのは、本山地区に所在する本山坑(ほんざんこう)、本山(ほんざん)動力所(どうりょくしょ)跡(あと)、本山(ほんざん)製錬所(せいれんじょ)跡(あと)、本山(ほんざん)鉱山(こうざん)神社(じんじゃ)跡(あと)である。
本山坑は明治16年(1883)に江戸時代からあった坑道を再開発したもので、有木坑とも呼ばれた。既指定地である通洞坑とともに、昭和48年(1973)の閉山まで採掘が行われた。坑口の前面に坑口の開閉所や貯鉱関係施設、浴場跡が遺存している。
本山動力所跡は本山坑口の北東約250mにあり、本山坑で使用する鑿岩機(せんがんき)等の動力に圧縮空気を供給するための施設である。洋風木造平屋建て(大正3年頃建設)で、建屋内にコンプレッサーが遺存する。
本山製錬所跡は産銅量の増加に対応するため、明治18年に新しい製錬所が設置された場所である。また、明治30年の予防工事命令を受け、脱硫塔が設置され、煙害防止対策が講じられた。大正6年頃、現在地に残る大煙突が反射炉熔鉱の導入に伴い建設されるが、反射炉熔鉱は失敗に終わった。昭和31年に自溶製錬法等が実用化され、亜硫酸ガスの大幅な排出削減に成功した。本山製錬所は昭和63年に事実上の操業を停止するまで使用された。明治初期から同じ場所で製錬を継続した足尾銅山の中心的施設であるが、工場の建屋や機械類は危険防止の観点から撤去され、事務所のほか、クレーン柱、硫酸タンク、貯鉱壜、計器室が遺存する。貨物駅である本山駅が附帯し、駅舎(大正3年建設)が残る。
本山鉱山神社跡は明治22年に坑長以下鉱員たちの寄付金で建設された。昭和48年の閉山後通洞鉱山神社に合祀されたが、建物等が遺存している。
以上の条件の整った足尾銅山関係施設を追加指定するとともに名称変更し、保護の万全を図るものである。