ナポレオン式四斤野砲
なぽれおんしきよんきんやほう
概要
武雄における大砲の歴史は、天保3年(1832)武雄領主鍋島茂義が家臣平山醇左衛門を長崎の西洋砲術家高島秋帆に入門させたことに始まる。2年後には茂義自身も入門し、武雄領では全国に先駆けて大砲製造に努力し、試射を行った。
この成果は、茂義の実弟で佐賀藩士坂部三十郎によって佐賀本藩に伝えられ、天保11年(1840)に神埼の岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られるようになった。
この砲は、腔線6条、前装式施条カノン砲で、仏式四斤野砲ともいう。慶応2年(1866)にナポレオン3世から幕府に12門が送られた。明治6年の調査では、42門が国内にあったことが知られている。