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官製はがき「高岡御車山」

かんせいはがき「たかおかみくるまやま」

概要

官製はがき「高岡御車山」

かんせいはがき「たかおかみくるまやま」

その他 / 昭和以降 / 富山県

発行:高岡市観光協会

たかおかしかんこうきょうかい

富山県高岡市

昭和47~51年/1972~76年

紙・印刷(2色刷)

各 縦14.8cm×横10.1cm

2葉

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-05-220

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

表面に高岡御車山の絵が印刷されている官製はがきである。2葉の様式は同じであり、同シリーズのものであると思われる。

【1】の表面下部には、通町御車山の全体と二番町御車山の車輪の絵が印刷されている。絵の右に「御車山まつり/5月1日」「高岡/御車山/重要民俗資料」「高岡市観光協会」とある。
【2】の表面下部には、御馬出町御車山の一部と小馬出町御車山の相座「猿」と車輪の絵が印刷されている。絵の左上に「高岡/御車山/重要民俗資料」、下に「御車山まつり 5月1日」「高岡市観光協会/昭和50年版」とある。

共に10円の料額印面(図案は「土器はがき」(長野県富士見町の井戸尻遺跡出土「水煙渦巻文深鉢」))、「郵便はがき」、郵便番号5桁を記入する枠が印刷されている。ちなみに、官製はがきに郵便番号が導入されたのは、昭和43年(1968)7月1日からである。また、同47年2月1日、はがきが7円から10円に値上げされている。そして、同51年1月25日に20円に値上げされた。
共に未使用。


【高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)】
 5月1日に高岡関野神社の春祭りで行われる曳山行事。山車は通町・御馬出町・守山町・木舟町・小馬出町・一番街通・二番町の7基。普段は同神社境内にある御車山収蔵庫に保管されているが、この日午前に飾り付けを済ませ祭神を迎えた山車は、片原町交差点に勢揃いした後、通町を先頭に二番町を殿(しんがり)として、一定の順路で市内を練り回る。山車は法被姿の若者たちに曳かれ、雅楽を思わせるような雅な囃子に合わせて車輪を軋ませながらゆっくり進む。行列には鈴棒・人足・囃子方・稚児・供奉者・人形方・山大工役ら約380人が加わる。山車はすべて同じ構造で、直径約1.8m前後の台車の上に幅約2m、奥行き2.7m、高さ約1.5mの屋台を乗せ、その上にからくりなど種々の人形を飾る。屋台の中央に立てた心柱の先端に意匠を凝らした鉾留をつけ、その下に見事な花笠を下げる。これを髯篭(しげこ)といい、とりどりの花に飾られた竹ひごが放射状に大きく伸びる。全国の山車で髯篭をもつものは稀だという。
 御車山は前田利家が豊臣秀吉から譲り受け、それを高岡の開祖前田利長が町民に与え、関野神社の祭礼に曳き回したのが始まりといわれる。国指定重要有形・無形民俗文化財に指定されている。

【通町御車山(とおりまちみくるまやま)】
 通町御車山は、白羅紗地に金糸で剣梅鉢紋を刺繍した「幔幕」を飾る。後屏は、孔雀と牡丹の図柄の彫刻を貼り付けた擬堆朱(ぎついしゅ)の逸品で、花鳥と文字を浮き彫りにした「高欄」とともに高岡漆器の代表作といわれている。
 本座は「布袋和尚」で、屋台の上段に据えられる。屋台の下段には相座として5人の「唐子」が置かれ、回転棒を握った中央の唐子は、巧妙なでんぐり返しを行うからくり人形となっている。中央にそびえ立つ心柱は、緋羅紗の柱巻で覆われている。心柱の中間に金襴の袋に入れた木製の板の「護符」を掲げ、最上部には金色に輝く「鳥兜」の鉾留を乗せる。金色の鳥兜は、毎年慣例により必ず御車山の先頭に立つ。
 漆塗りされていない木地のままの轅や、屋台後部に挿される「桜の送り花」を付けないことなど、他の6台との相違点も見受けられるが、飾り山部分は各分野の名工による豪華な工芸品で飾り立てられている。
 布袋和尚は、文化8年(1811)に辻野九右衛門が作ったもので、明治12年(1879)に焼失した後、本保喜作が同24年に製作した。中央の唐子三体は名工辻丹甫(つじたんぽ)の作と伝えられるもので、同42年には通町の漆芸家中山久勇が回転唐子の頭を補充のため新調した。
 鉾留の鳥兜は、天保4年(1833)に作られた鳴鳳堂桃造の作品を模して、昭和5年(1930)に中山久勇と中山久作により復元新調されたものである。また、辻野伊右衛門及び同久右衛門の作の擬堆朱の後屏は、今日の唐物彫刻漆器の原型ともいえるもので、高岡彫刻漆器の代表的な参考資料となる。
 上長押に見られる唐子文様金具は江戸時代後期、高岡の名工として知られた餝屋清右衛門の作である。布裏の菊花文様金具も当時の工芸技術の粋を集めたものである。

【御馬出町御車山(おんまだしまちみくるまやま)】
 御馬出町御車山の「幔幕」は藍地に三獣唐子遊模様を織り出した綴織(つづれおり)の逸品で、前幕の背面には、「畫工 明大家/繍師 明名師/寛政第十歳次戌午春三月求得之京都」と裏書を持ち、御車山の「幔幕」の中では白眉ともいえるものである。
 車輪・轅はともに黒呂色塗り仕上げで、精緻な金具を一面に飾る。「長押」の霞文様に松模様と「布裏」の松模様と唐草の金具、「上幕押」の唐草模様と「下幕押」の波濤模様の金具は、意匠・技術ともに素晴らしいものである。
 「高欄」は、黒呂色塗り仕上げに桜・梅・松葉文様の金具を飾る。金箔押し仕上げの下地に、後高欄上部には雪山、その下部及び両脇には武具の彫刻を貼り付け、さらにその上を極彩色に仕上げている。他の御車山の高欄が「擬堆朱」や「擬堆黄」など中国的な手法により作られているのとは対照的に、大和絵を思わせるたたずまいである。
 鉾留めは「胡簗(やなぐい)に弓矢」で、作者は勇助塗を継承した初代石井勇介であると伝えられ、後に中山久勇が補修したという。
 本座には、能「鉢木」にちなんだ「佐野源左衛門」、その前に松と梅の鉢と木を置く。本座は文政4年(1821)と天保12年(1841)の大火で焼失したので、当町の仏師山本与三兵衛が天保13年に制作した。明治33年(1900)の大火で焼失した木造の高岡大仏も与三兵衛の作である。

【小馬出町御車山(こんまだしまちみくるまやま)】
 小馬出町の御車山は、能楽の謡曲「猩々(しょうじょう)」を根拠とし、商売繁盛の象徴として猩々の像を本座に置いている。猩々は能面を被り、右手に扇子をかざした立舞の姿である。相座は、からくりにより首を左右に振り、太鼓を叩く「猿」である。猿は、文化元年(1804)片原横町の黒川発右衛門が製作したものである。また、猿の帽子姿裏に施された雀の金具は、高岡彫金の祖、安川乾清(やすかわけんせい)の作であるという。
 鉾留は「太鼓に鶏」で、猩々の謡曲にちなみ、猩々からいくら汲み出しても尽きることのない酒壺を得た唐土の孝子高風が、鶏の鬨声や太鼓の音によって夢から覚めた故事を表すという。宝暦3年(1753)辻丹甫の作であると伝えられる。
 幔幕は「春秋舞楽の図」の綴織(つづれおり)で、昭和56年(1981)に復元新調された。前幕は、明治37年(1904)に京都で制作されたもので、図案は毛利延年、織は長岡信の手になる。このほか忘れてならないものに古幕がある。古幕は五種の裂を交互に10枚繋ぎ合わせたものである。緋羅紗地の毛氈は、中央の十字形部分に白の綴織裂を置き、その四隅に菊唐草文麻糸レースを配し、天地には唐花文刺繍がなされており、一見キリシタンの十字架を連想させる。
 高欄は、柱が朱溜塗り、鏡板がうるみ塗りでわずかに色調を異にしている。鏡板の地板は格子状の存星風(ぞんせいふう)で、その上に牡丹に小鳥と雲竜文の彫刻彩漆が施されている。色漆の調整やぼかし塗り、マコモ粉による古味付けなど、豪華華麗な彫刻彩漆はまさに井上(板屋)小右衛門の代表作といえるものである。
 上幕押の金具は、草花や昆虫、蛙などを題材にしたもので、その彫金・象嵌、着色など多彩で高度な技で表現され、他の追随を許さない。車輪には、桐、雲、鳳凰文様などを打ち出した金具が付けられている。これらの金具は文久2年(1862)藤田清右衛門が作ったもので、独鈷(車輪中央の車輪をカバーする部分)も同じく清右衛門が万延2年(1861)に製作した。

(高岡市教育委員会編『高岡御車山』高岡市教育委員会,2000)

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キーワード

車山 / 高岡 / くるま / 小馬出

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