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紙本著色高岡御車山祭礼行列絵巻屏風

しほんちゃくしょくたかおかみくるまやまさいれいぎょうれつえまきびょうぶ

概要

紙本著色高岡御車山祭礼行列絵巻屏風

しほんちゃくしょくたかおかみくるまやまさいれいぎょうれつえまきびょうぶ

江戸 / 富山県

富山県高岡市

江戸時代後期

紙本・屏風(6曲1隻)・著色

〔上段〕(本紙)縦36.1cm×横 計214.4cm、〔下段〕36.2cm×235.1cm、〔全体〕107.0cm×275.0cm

1

富山県高岡市古城1-5

1-99-47

高岡市(高岡市立博物館保管)

高岡を代表する祭礼、高岡御車山祭の行列を描いた最古の絵画資料である。
小型の6曲屏風に上下2段、計約450㎝にわたって、縦約36㎝の料紙に描かれている。表装の金地は新しく、元は絵巻物(もしくは折本)であった可能性も考えられよう。
本図には文字は一切書かれておらず、年代や作者、制作の経緯などは不明である。旧蔵者は京都の表具屋から同所の古美術商に移ったが、本資料についての情報は不明とのことである。
本図は技法的・図像的などの観点から、江戸後期頃のものと考えられる。
現在、高岡御車山祭の行列を描いた最古の絵画資料は、明治16年(1883)の木版画「越中国高岡/関野神社祭礼繁昌略図附録」(当館蔵)(※1)であり、本図は現在のところ最古となると考えられる。
本図には現在の御車山と同様、上段右から通町・御馬出町・守山町・木舟町、下段右から小馬出町・一番街通・二番町の御車山が続く(それ以外の源太夫(げんだい)獅子や神輿(みこし)、母衣(ほろ)武者などの行列は描かれていない)。各曳山の前には1~2名の羽織姿の鈴(りん)棒(ぼう)曳きとカラフルな着物に裃姿(笠は被らない)の山役員9名前後、その後ろに揃いの半纏姿の曳手12~3名(内各曳山の後ろに各2名)が描かれる。ほぼ丁髷(ちょんまげ)姿で、多くは笑顔で、若者もおり、それぞれの個性が豊かに表現されている。小馬出町・一番街通・二番町は休憩中であり、寛いだ様子が描かれる。
二番町の鈴棒曳きの一人だけ着色されておらず(※2)、文字情報の無い本図が未完成である可能性も考えられる。
現在との大きな違いは、各曳山地(じ)山(やま)から前に突き出た轅(ながえ)が現在のように太く装飾された「蕨(わらび)手(て)」ではなく細いもので、御車山の原型とされる牛車(ぎっしゃ)(御所車(ごしょぐるま))のそれに近いものである。また、轅に直交させる丸太も無く、轅に付けられた2本の綱を計10人前後の曳手が曳く形式となっており、これも原形とされる祇園祭と同じ形式である(明治16年木版画では蕨手がある)。
本図では各曳山の幔幕の図案は、守山町以外は現在と異なり、古幕の変遷が伺える。ちなみに、省略されている可能性もあるが、各曳山台座に乗る稚児(ちご)は描かれていない(明治16年木版画にも描かれていない)。
本図で最も注目すべきは、現在は無い8基目に四輪板車(※3)の曳山が描かれていることである。他の曳山同様に鋒留(ほこどめ)(薄(すすき)に三日月)、幔幕(萌黄地(もえぎじ)梅鉢紋)、曳手12名に鈴棒曳きまで描かれている。この台座手前には笛と締(しめ)太鼓を演奏する人物が、奥には長胴(宮)太鼓が描かれている。台座中央には撥(ばち)の上に小さな鞠を重ねる曲芸(立て物というバランス芸)をしている人物が描かれる。これは史料数点(※4)に見られる、坂下町の「大神楽山(だいかぐらやま)(太(だい)神楽山車(やま))」かと思われる。史料によると、坂下町の大神楽山車は1686(貞享3)年〔又は1678(延宝6)年〕に簡易な太鼓の地車(じぐるま(だんじり))(※3)が認可され、1718(享保3)年に他7基同様の指車(さしぐるま)(※2)の曳山が認可され、1776(安永5)年に山町の訴えにより、元の地車に戻すように(又は差し止め)された。よって本図の内容の年代は1718年から1776年の間とも考えられる(製作年代はそれより後)。ちなみに、坂下町が山町10ヶ町に入ったのは不明だが昭和14~5年頃以後とされ(※4)、また源太夫獅子で先導するようになったのは、国の文化財補助事業により射水神社の獅子頭が復刻された、昭和58年(1983)である(※5)。
折れ目部分などに若干の虫損があるが、概ね状態は良好である。
国指定重要有形・無形民俗文化財かつユネスコ無形文化遺産である高岡御車山祭の歴史を知る上で貴重な資料である。
          
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【注】
※1 明治16年(1883) 木版画「越中国高岡/関野神社祭礼繁昌略図附録」(当館蔵)→https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/441046
https://www.e-tmm.info/saireihanjyouzu.htm
※2 未着色の鈴棒曳き(二番町)→画像参照
※3 曳山の車輪の種類
・板車(いたぐるま)…車輪のスポークにあたる「輻(や)」を板で隠した(もしくは無い)車輪。指車に次ぐ格式。
・地車(じぐるま(だんじり))…曳山台枠(台輪)内側に丸太等の小さな車(車軸は個々)が取り付けられた内輪式の車輪。
・指車(さしぐるま)(差車)…高岡御車山等の御所車(台八(鉢)車)状の外輪(そとわ)式の車輪。最も格式が高い。車軸両端に車輪が付けられた「二つ指(ざし)」。スポークにあたる「輻(や)」がある輻車(やぐるま)。
※4 坂下町「大神楽山車」関係資料
①「車曳山之由来」(「守山町々名并釘貫紋之由来」高岡市立中央図書館蔵。釈文は『高岡市史料集』第1集)
・延宝6年(1678)3月17日、先宮(まずのみや)(木町熊野社、現熊野町熊野神社)祭礼。慶長18年(1613)以来、利長の病、死去などから長らく中絶していた御車山が7基揃う。坂下町から荷物馬3匹と「曳山出ス」。町々も初めて踊りを出す。
・元禄13年(1700)正月2日、先宮神楽太鼓、町年寄中・算用聞中・肝煎中より寄進ある。
・安永5年(1776)2月、「安永の曳山騒動」の裁決により、「坂下町引山・大神楽も相止」。
②「高岡御車山記録」(高岡市立中央図書館蔵。釈文は『高岡市史料集』第4集)
・〔宝暦の曳山騒動関連→宝暦11年(1761)6月14日〕先宮の由緒が認められ、坂下町曳山の由緒が問い合わされる。「坂下町車出来之様子書出候可申事」(訳:坂下町の車が出来た経緯を書面にして提出すること。)
・(同年同月16日、上記の回答)「就御尋申上ル/御当所御神祭之砌、私共町内ゟ毎歳、代(ママ)神楽山錺出し来候趣ハ、貞享三年(1686)御神祭之砌、御能仕組拍子方等仕度/旨御願申上候処、御役所御詮儀ハ相済申由ニ/候へ共、神主ゟ金沢表江被相窺候所、難成由ニ而右代りかろく地車山ニ而、代神楽之太鼓迄上ケ置申山拵、神役人中より/相伝、町内ゟ出シ申拍子方之者共は歩/行仕、町々ニおゐて右山之前ニ而太鼓打申候、/其後始而七町同事之車ニ仕度出願上/御詮議候上、享保三年(1718)神主ゟも被相窺容易難成筋々之人共、町内祈祷山之趣、御定重御由緒を以格別ニ御聞届、則/御神祭之幣帛之御願計申継、御所車/を以指出し来り申候、右由来伝承之趣/申上候通ニ御座候、以上/巳六月十六日 坂下町組合頭/車屋八兵衛/和田屋仁左衛門/御役人衆中」
(訳:お尋ねについて申し上げます。高岡祭礼の際、私町内(坂下町)より毎年、大神楽山を飾って出してきた経緯は、貞享3年(1686)の祭礼の際、「御能」が行われ組拍子方(囃子方カ)をしたくお願い申し上げましたところ、お役所(高岡町会所カ)でご検討され承認されました。しかし、神主より金沢の藩庁へお伺いされましたところ、認められないが、その代わりに「かろく(軽くカ)」地車山にて、大神楽の太鼓だけを上に置いた山を拵えたと神役人らより伝えられ、町内より出した「拍子方」の者らは徒歩で、町々の曳山の前にて太鼓を打ちました。その後初めて他七町同様の曳山にしたいと出願すると、ご検討の上、享保3年(1718)、神主よりもお伺いすると容易にはできないという担当役人らは、町内の「祈祷山」との趣旨であり、規定を重んじ、由緒もあることなので、格別に承認された。つまり、これはあくまでも祭礼の「供物」としてのお願いであると通達され、「御所車(輻車、指車)」を曳き回しています。このような由来を伝承していることを申し上げます。以上。宝暦11年(1761)6月16日 坂下町組合頭 車屋八兵衛・和田屋仁左衛門  御役人衆中」
③「就御車山御書御印等写并ニ古来ヨリ由緒書上申帳」文化8年(1811)(高岡市立中央図書館蔵。釈文は『高岡市史料集』第26集)
・〔安永の御車山騒動の裁決→安永5年(1776)2月〕「高岡坂下町大神楽山車之儀ニ付各紙面被指出候、/往古ハ無之事ニ候間、貞享年中之通り、自今地車/を以曳渡候様可被申渡候事」
(訳:高岡坂下町の大神楽山車の件について、各書類が発行されました。昔は無かったことなので、貞享年間の通りに今よりは地車にて曳き渡すようにと通達があった。)
・「(前略)他所他社ハ不及申ニ同祭礼/関野社之産子町たりとも、大町七丁之御車山之外ハ都而/御停止之御儀ニ而、坂下町貞享年中ゟ百有余年/連綿与曳来候御所車ニ似寄之車すら御指止、地車ニ/被仰渡候程之大切成御由緒之御車ニ御座候」
(訳:他所や他社は言うまでもないが、御車山祭、関野神社の氏子の町であっても、大町七町の御車山の他は全て禁止となった。坂下町は貞享年間より百有余年、連綿と曳いてきた御所車に似た車ですら禁止となり、地車にせよとの命令があった程の大切な御由緒の御車でございます)
④宝暦13年(1763)3月、「正一位関野神社・正一位加久弥神社 御祭礼行烈」(高岡市立中央図書館蔵)に御車山(曳山)7基の次に「太神楽山 坂下町/竪物(注:鋒留)薄三日月 菊」とある。その後に母衣武者・神輿3基などの行列が続き、江戸時代は「先鋒」といい、御車山が神輿の前を行っていたことがわかる。
※4 『高岡御車山と日本の曳山』高岡市教育委員会、昭和58年、p48
※5 同上書、p53。『高岡御車山』高岡市教育委員会、平成12年、p79

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