大峯奥駈道
おおみねおくがけみち
概要
大峯奥駈道
おおみねおくがけみち
2県以上
吉野郡吉野町・黒滝村・川上村・天川村・上北山村・下北山村・十津川村、五條市、田辺市、新宮市
指定年月日:20021219
管理団体名:五條市、吉野町、天川村、上北山村、下北山村、田辺市、新宮市
史跡名勝天然記念物
大峯奥駈道は、標高1,200mから1,900mの山々が連なる大峰山脈の主稜 線を通り、吉野と熊野の二大聖地を結ぶ約120kmに及ぶ山岳道であり、急峻な山 岳は、我が国固有の信仰である修験道の最も重要な修行の場となっている。
この道は、修験者の修行の道であり、沿道には金峯山寺、鉱山資源を支配するとい う「金山毘古神」を祭神とする金峯神社、大峰山寺、熊野本宮大社の奥の宮であり、 社務所と台所が重要文化財に指定されている玉置神社などの寺社以外にも、宿や靡と 呼ばれる霊地が点在し、平安時代中頃には既に120近くの霊地が記録されている。 これらの山中の峰や岩、滝などは諸仏尊が顕現した場所といわれ、鏡や土器など信仰 に伴う遺物が多く確認されている。
なお、大峰山寺本堂解体修理に伴う発掘調査による黄金仏などの出土、金峯山経塚 からの多量の出土品は、平安時代前期の藤原道長を初めとする中央貴族の大峯修験へ の多大な信仰を物語るものとなっており、奥駈道の本宮側の基点近くには、保安2年 (1121)銘の陶製外容器が出土した備崎経塚群も所在する。
大峯奥駈道に入って、読経・修法などの修行することを峯入りといい、その種類は、 時代によって異なり、鎌倉時代末には晦日山伏の峯入・華供の峯・役行者御影供の峯 ・諸国山伏の峯入・笙の窟冬籠の5種類があったとされ、室町時代になると、本山派 は春、熊野から入って吉野にぬける順峯、当山派は秋に吉野から熊野にぬける逆峯の 修行を行うようになる。また、江戸時代には、本山派は年間を通じて、当山派は春か ら秋にかけてそれぞれ4種類の峯入を行うようになる。峯入は、現在も行われ、本山 修験宗の聖護院では、夏に奥駈をし、当山派の三宝院や金峯山寺では、春の華供峯入 と夏の奥駈を行っている。なお、江戸時代中期以降には在俗者を中心とする大峯講の 峯入りも行われるようになる。
峯入は、入峯前に前行、入峯の際に入成の作法をし、峯中で十界修行をすることに より、即身成仏の境地に達し、出成の作法をして出峯するという順序で行われた。
熊野から吉野の大峯山全体は、胎金の曼陀羅とされ、峯入道にそって120の宿が 設けられ、これらを拠点として修行が行われたが、特に山上ケ岳・小笹・弥山・深仙 ・前鬼などが重視された。また、その後奥駈道に、本宮を第1とし吉野の柳の渡しを 第75とする靡が設定され、それぞれ修行の場となっていた。
このように平安期から、我が国固有の信仰である修験道の最も重要な修行の場とな っていた大峯奥駈道は、今もその姿を良好に留め、我が国の修験道の歴史を考える上 で極めて重要な遺跡であり、よって史跡として保護しようとするものである。