薩摩国伊作庄日置北郷下地中分絵図
さつまのくにいさくのうしょうひおききたごうしたじちゅうぶんえず
概要
本絵図は、元亨四年(一三二四)八月、近衛家領薩摩国日置北郷(現在の鹿児島県日置郡日吉町)の相論において、領家の一乗院雑掌である左衛門尉憲俊と、地頭大隅左京進宗久代沙弥道慶との間に、和与が成立したときに作成されたもので、下地中分絵図の代表的な遺品として知られている。その和与の内容は島津家文書中の元亨四年八月廿一日薩摩伊作庄并日置北郷領家地頭和与状に明らかである。それによれば、この和与は伊作庄・日置北郷および日置新御領の田畠・山野または荒野・河海の下地を双方に中分し、各領内の検断および所務をそれぞれ一円に進止するというものであったが、日置北郷の場合は、川や道路を利用した複雑な線をもとに折半が行われたことから、その境界線を明示するために絵図が作成されたと考えられる。
図は楮紙四枚を継ぎ合わせて料紙とし、東の薩摩半島の骨格を形成する山地を上にして、中央に吉利名の屋敷・薗を中心とする台地を比較的大きく描き、北側に大川の流域、西側(下方)には海(東シナ海)を描いている。庄内に描かれた在家は「領家政所」をはじめとする計一二宇で、薗、田、畠は、田に薄墨色を施すなどして描きわけ、シラス台地の谷底が水田に利用されている様子を伝えている。図中、朱をもって東西に境を立てる下地中分線を表し、道路、山の稜線および、屋敷や稲には黄土色、河川や海には薄藍色にて彩色を施しているが、とくに山々の樹木や海の描き方は大和絵の筆法を伝えており、本図が専門の絵師の手になることを示している。
図中、下地中分線は和与の内容とまったく一致し、西の帆湊の海上から東に向かって、ハシロ橋を経て河を登り、苦田橋より南の仮野崎に達し、さらに千手堂の前を回って東に進み、胡桃野(久留美野)大世多和からまっすぐに七曲(伊集院堺)に至る。中分線の両端には線を挟んで「領家方」と「地頭方」の墨書があり、南側北側のそれぞれに「朱點者、両方之堺注也、/但此繪圖者、堺一段也、自/余両方不及委細也、」と記し、下地中分の境であることを明記している。さらに絵図裏面には、中央やや上部に「伊作庄内日置北郷堺繪圖」と墨書があり、中分線の両端に、それぞれ、雑掌・地頭代が署名して花押を据え、途中、中分線が折曲する箇所には雑掌左衛門尉憲俊の花押が据えられている。
本図では、複雑な下地中分の境線を正確に通すために、とくに吉利名を中心とする地域が大きく描かれている。下地中分により「領家政所」が地頭方に編入されるなど、吉利名が半分に分断されているが、全体としては、地勢などのうえから領家・地頭にとってほぼ同等の土地に折半されたものと思われる。
このような下地中分絵図の遺例としては他に伯耆国東郷庄のものなどが知られているが、本絵図は、作成の目的や折半の様子が具体的にわかるなど、当時の下地中分の実態を考えるうえに重要であり、中世史研究上に価値が高い。