永徳百首
えいとくひゃくしゅ
概要
永徳百首は、永和百首とも称し、『新後拾遺和歌集【しんごしゆういわかしゆう】』の撰定に際して後円融天皇が召したもので、永和元年(一三七五)十月に翌年二月までに詠進すべき命が下ったが、実際に詠進されたのは大幅に遅れ、永和四年には詠進者の追加があって、全員のものが集まったのは永徳年間(一三八一-八四)と推定されている。本百首にはまとまった写本が伝存せず、これまで個人百首の写本として四名のものが知られるほかは、勅撰集の詞書等から二九名の詠進が知られていた。
冷泉家に伝存するのは、九条忠基、西園寺実俊、四辻善成、勘解由小路兼綱、小倉実遠、二条為遠、小倉実名、日野資教、冷泉為尹、八条為敦、柳原資衡、津守国量の一二名のものである。いずれも厚手楮紙を継いで書かれ、端作は「夏日詠百首和歌」(忠基)、「詠百首和歌」(実俊)などとあり、位署は嘉元、文保のものに比して簡略で、散位の場合を除いて位階を記さず、「朝臣」等の姓、名の下の「上」の下附も記していない。本文は春二十首、夏十五首、秋二十首、冬十五首、恋二十首、雑十首で、計百題のもとに一題一首を上句・下句の二行に書いている。虫損等のため文字の欠けた箇所もあり、冷泉為尹のものは前半を欠き霰以下三八首を存するのみとなっているが、他は百首を存している。
この一二名のうち、小倉実名はこれまで永徳度の百首詠進が知られておらず、他の一一名についても、その百首の内容は、この冷泉家時雨亭文庫に伝わる原本によってはじめて知られるものである。
嘉元、文保の百首とともに、中世貴族の自筆仮名資料として書道史上にも注目され、勅撰集の撰定に際しての百首和歌の詠進者の自筆原本として中世国文学史上に価値が高い。
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