御城分間絵図
おしろぶんげんえず
概要
佐賀城は四周を堀に囲われた平城である。その堀幅は江戸初期の寛永年間に最も広い地点で50間(≒100m)であった。ところが経年により次第に土手を抑える板が朽ち始め、堀端の土が崩落し堀幅が広がっていった。そこで享保20年(1735)、5代鍋島宗茂は幕府へ補修許可願いを出しており、6代鍋島宗教が一部を修復したが財源を確保できず完遂しなかった。それから数十年を経た、寛政8年(1796)本格的補修のために作成されたのが本図である。堀幅補修にあたっては正保2年(1645)に幕府へ提出した城絵図が基準とされており、現状の絵図上に朱線で「正保二年 公儀上リ御絵図御堀幅」が示されている。また局地的に現状と正保期における堀幅が注記されているが、なかには5間近く広がっている箇所もある。このほか護岸の石組や樹木の表現も詳細で、城下絵図や文字資料では分からない佐賀城の詳細を知ることができる点で貴重である。