鴻池新田会所跡
こうのいけしんでんかいしょあと
概要
S51-6-019[[鴻池新田会所]こうのいけしんでんかいしょ]跡.txt: [[葛城]かつらぎ]山系に源をもつ大和川は、古代以来、その治水問題で民衆や為政者を悩ませていたが、宝永元年(1704)江戸幕府は新河道を築造することにより、永年の悩みを解決した。この大事業の副産物として、旧河床・旧池床は新田として開発されることになり、初め大坂町人が共同して請負ったが、宝永2年鴻池善右衛門宗利が全面的に譲り受けた。新田開発は、宝永4年(1707)、120町1反6歩で一応完工し、「鴻池新田」の名が与えられると同時に、新田を管理するための会所が設けられ、新田支配人が置かれた。
会所は濠をめぐらした台形状の敷地の内に、母屋・門長屋・文書蔵・米蔵等を配置したもので、現在もこれらの建物及び濠を見ることができる。
鴻池新田会所は、町人請負新田の代表である鴻池新田の中心をなす遺構であり、幕末・明治の豪商鴻池家の成長過程を知る上でも、欠かせないものである。