横須賀城跡
よこすかじょうあと
概要
S55-05-022横須賀城跡.txt: 小笠丘陵末端が遠州灘におちていく大須賀町横須賀に横須賀城がある。天正3年(1575)長篠合戦の勝利をうけて、同6年、高天神城奪還を企図した徳川家康(当時浜松城に在城)が部将大須賀康高に命じて築城したものである。選ばれた地は小高い丘陵とその山麓の砂丘であり、西進すれば浜松、東進すれば相良に至る街道に面している。また現在は陸地化しているが、かつては海に直結する内湖に南面していたことが古絵図によって判明する。そのような水陸交通の要地を選び、北西約2キロの高天神城の喉元を扼したものである。
大須賀康高以降、大須賀忠政、[[渡瀬]わたらせ]繁詮(豊臣秀吉家臣)、有馬豊氏(同上)が城主となり、関ヶ原役以後大須賀忠政が6万石で再入部し近世横須賀藩が成立した。以後松平氏、井上氏、本多氏、西尾氏と城主の変遷をみて2万5千石の城として廃藩置県に至った。
遺構としては丘陵上の天守台、本丸、西の丸、北の丸、松尾山、砂丘上の二の丸、三の丸、また松尾山北東の大空濠がよく残っている。また城郭の北、西、南を画する堀跡があり、埋立がなされたところもあるが、玉石積の石垣遺構がよく残り、また隠し堀といわれる舟入状の堀跡は、入江に面し横須賀港をおさえていた横須賀城の特色をよく示している。
徳川氏が築いた横須賀城は既指定の武田方諏訪原城、武田・徳川方の争奪地となった高天神城とあわせ、武田方の進出と衰亡、徳川氏の成長過程を示す貴重な史跡であり、このような歴史的意義及びその良好な保存状況を考え、史跡に指定しその保存を図るものである。