向嶽寺庭園
こうがくじていえん
概要
向嶽寺は、臨済宗向嶽寺派大本山である。塩山市街地から北西方へ約一キロメートル、標高約五五〇メートルの独立峰「塩ノ山」南山麓に位置する。寺史によれば、当寺は、康暦二年(一三八〇)、抜隊得勝禅師がこの地に草庵「向嶽庵」を開いたことに始まるとう。以後、武田氏、徳川氏の庇護を受け、延亨二年(一七四五)幕府に提出した寺院帳によれば向嶽寺を本寺として塔頭三五、末寺四九、孫末寺三二があり、別に離末寺二七が挙げられている。多くの被災のうちでも最大の火災は天明六年(一七八六)に起こり、伽藍の大半を失った。以後徐々に復興されたが、古建築としては、中門(室町時代-重要文化財)を残すのみである。
庭園は、境内最北端、大正十五年に焼失した方丈の裏(北側)に面した山裾の斜面に造られている。長い間、半ば埋もれ荒廃し、三尊石や滝石組などの頭部が見えている状態であったが、平成二年度に発掘調査が行われ、全貌が明らかになった。その結果、上段の池が発見されるとともに、後世、逍遥するために設けられた飛石なども検出された。続いて三年度には、調査結果を基に、飛石などの除去を含めた修復工事が行われ庭景が整備された。
庭園は、方丈からの眺めを主目的に造られたものと考えられる。正面上部の高さ二メートルを越す「三尊石」(「遠山石」の役も果たす)を主石として、左方上部から屈曲する石組溝により山水を導き、大振りの添石を配した滝石組で上段の小池へ落とす。右方からも(導水路の上部は不明だが)水を導き、小振りの滝石組で同じく池へ落とす。この池から伝落の小滝石組で水を導き、高さ一・三メートルの最大の滝石組で下段の池へ落とす。下段の池では、滝石組の左方に巨大な立石を添えた洞窟風の護岸石組を配し、右方では出島および堅固な立石による護岸を設け、共に庭景を引き締めている。池尻は西端にあり、暗渠で西へ落とす。
昨庭時期についての史料はないが、伽藍の定形が整備される江戸時代初期に庭園の原形が造られ、被災と復興に合わせてたびたび改修され、江戸時代中期頃に現形に落ち着いたと考えられる。
庭園植栽こそ遺存していないものの、地割や石組は堅固に残され、作庭の意図および技法をよく窺うことができる。三尊石(遠山石)を中心に多くの滝を配し、山裾の豪壮な石組でまとめる構図は見事である。特に、上段の池の左右に向かいあうように設けた滝石組の構成は珍しく、両方の滝が相殺されることなく纏めあげた意匠は巧妙である。また、下段の池の洞窟風護岸石組は、恵林寺庭園の場合と同様、山梨県に残る古庭園によくみられる技法であり、この庭園の護岸のうちでも最も注目されるものである。
このように、この庭園は、山梨県に残る古庭園の典型として優秀であり、また、発掘調査による成果を基盤とした、日本の伝統的庭園の歴史を伝える学術資料としても貴重である。