東勝寺跡
とうしょうじあと
概要
東勝寺跡は,国指定史跡・鶴岡八幡宮境内の南東,滑川を渡った葛西ケ谷と呼ばれる谷戸に立地する。滑川の西岸には,最後の北条氏得宗・高時一族の菩提を弔うために,後醍醐天皇が高時邸跡に建立した宝戒寺がある。宝戒寺のある市街地と葛西ヶ谷とを結ぶ橋は東勝寺橋という。
東勝寺は青龍山と号し,開基は三代執権の北条泰時,開山は栄西の弟子の退耕行勇である。当初は禅密兼修の北条得宗家の氏寺で,正確な創建年代は不詳だが,開山の退耕行勇は仁治2年(1241)に東勝寺で没している。元弘3年(1333)5月22日,新田義貞等の鎌倉攻めにより犀敷を焼かれた北条高時は,葛西ヶ谷に引き籠もり,東勝守の伽藍堂舎に火をかけて,一族郎党以下870余人とともに自害して果て,鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』)。東勝寺はその後直ちに再興され,室町時代には関東十剰の第三位に列する名刺であったが,元亀四年(1573)には旧東勝寺領の所領が建長寺の僧侶に与えられていたことが明らかであり(仏日庵文書),この頃には廃絶していたと考えられる。
葛西ケ谷は,滑川で限られた酉に向かって開口する谷戸(約10万ヘクタール)で,貞享2年(1685)刊行の『新編鎌倉志』にはこの地が東膵寺の旧跡であると記載されている。
寧戸は三つの支谷に分かれており,指定予定地は,北側及び中央の支谷とその周辺の丘陵部で,「高時腰切やぐら」と通称される880余人首塚を含む範囲である。
昭和50・51年と平成8・9年に,北側及び中央の支谷を中心に,発振調査が行われた。出土遣物の年代や炭化物層及び被熱の状況から,元弘3年には存在していたと推定される,鎌倉石の切石を積み上げた石垣ヰ切石を敷いた坂道,岩盤を掘削した溝,門跡と推定される地覆石列,礎石建物1棟(柱間6尺6寸,2間×4間以上),擁立柱建物1棟(柱間7尺,4寸角柱,桁行7間以上×梁間4間)等の遺構が良好に遺存していることが確認された。北条氏の家紋である三鱗文の瓦が出土したことにより,ここが近世地誌の記載や伝承のとおり東勝寺跡の重要な一画であることが判明した。出土遺物には,一般の寺院跡ではみられない中国産の獣足青磁香炉・獣足褐軸香炉・天目茶碗,国産の古瀬戸朽葉文壷等が多琴含まれており,流通と対外貿易を掌握していた北条得宗家の氏寺跡ならではの優品として注目される。
発掘調査と併せて実施した周辺部の地形調査では,滑川を前面の堀とし,丘陵部に崖を切り落とした人工的な切岸,削平平場を配置して要害化した状況がよく残っており,城郭的な色彩の強い寺院構造であったことが確認されている。東勝寺は,北条得宗家の邸宅のすぐ東側に位置し,政権の最高権力者の得宗家を守ることを目的の一つとして建立されたことは明らかである。
東勝寺跡は,北条泰時が創建した得宗家の氏寺跡で,鎌倉幕府,北条氏得宗・高時一族の終蔦の地となった。城郭的な機能を持った寺院跡としても特異であり,禅宗寺院としての寺格も高く,遺構・遺物の依存状態も良好である。よって、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。