石垣山
いしがきやま
概要
天正18年豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻略した際、築いた本陣のあったところであって、石垣山の名はその城壁の石垣に起因するものである。本陣は、4月5日着工、6月26日竣功、小田原城の南西2.8キロメートル余に位し、標高241.3メートルの山頂部を占め、早川、を隔てて眼下に小田原方面を一望の内におさめることを得、盖し絶好の拠点である。
多く年所を歴、更に大正大震災に遇い、石垣の崩壊欠失は少なくないが、本丸を最高所として2の丸、南曲輪、井戸曲輪等が配置されて、なお、雄大な石垣もあり、旧規模よく存し、その井戸曲輪は、羨し谷状地の底部に湧出する井泉を護って特に石垣を囲らしたものであって類稀であり、且遺構略々完存し、築城の構想の並々でなかったことが察せられる。
役後廃城となったが、その歴史的意義と併せて城歴が限定されていることは、築城史上の規準となるものであり、学術上価値ある遺跡である。