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石田城五島氏庭園

いしだじょうごとうしていえん

概要

石田城五島氏庭園

いしだじょうごとうしていえん

名勝 / 九州 / 長崎県

長崎県

五島市池田町

指定年月日:19911116
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

五島列島は、長崎県本土との間に五島灘をはさんで東シナ海に浮かぶ九州最西端の島々である。その最南端の列島最大の島が福江島であり、島の東半部が福江市である。長崎市に西方約七〇キロメートルに位置する。
 中世から五島で支配の地を固めてきた宇久氏は、末期に五島氏と改姓し、江戸時代初期にここ福江の石田の地に城(陣屋)を構えた。以後五島藩主として代々石田城を居城とし明治維新まで存続した。五島藩は、江戸時代を通じて城の整備に努めてきたが、幕末になって異国船防御のため大規模な城郭建設を幕府に要請し、ようやく嘉永二年(一八四九)に許可を得て文久三年(一八六三)に完成した。北海道松前の福山城とともに、最も新しい大名城郭として有名である。
 庭園は、二の丸の西南端、もと廐舎や「育英舘」(藩士教育所)があった所に造られている。第三十代盛成は、城の工事が八分通り竣工すると、安政五年(一八五八)家督を嗣子盛徳に譲り、この地に隠居所として邸宅と庭園を建築・築造した。
 二の丸西門である「蹴出門」桝形を通って左側すぐに隠居所の平門が石垣に挟まれて設けられている。門を入ると正面が玄関書院であり、ここから斜めに廊下で座敷書院に渡る。これから再び東北に池庭に差しかけて釣殿風の庭園鑑賞用の小座敷を設けている。また、玄関の左手から桝形裏の土坡沿いに延段が続き、井戸、洗い場、内庭、池庭への石組水路の間を進めば、北側石垣裏の土坡に至る。土坡の下に石組溝が二か所開いており、一つは外堀から池庭への導水路であり、一つは抜け穴と伝える。ここから東へ折れて、金明竹二株の脇を進めば、庭門を経て庭園に入る。また、これに沿って導水路の石組溝が釣殿風小座敷の下へと抜けている。
 庭園は、座敷書院の東側に広がる三方を土坡と石垣で囲まれた地に、約一〇〇〇平方メートルの池を中心として造られている。書院から東へ庭をのぞめば、左手すぐ近くに溶岩で組んだ小さな滝石組がある。釣殿風小座敷の下を通ってきた水がここで書院側に面して布落ちになって池に注いでいる。この手法は類例がなく珍しい。右手岸近くには、中島を置き一枚の切石橋を架ける。左手遠く池の中央あたりにもやや小振りな中島を配し一枚の切石橋で岸と結んでいる。正面遠く池中央にも小さな岩島を置くが、わずかに頭を見せるだけである。右手奥に池に迫り出すように、溶岩で組み上げた築山がある。その中央には直径二メートルを越える大楠が亭々と聳え、池に枝葉を差しかけており、この庭園の主木となっている。正面奥の池畔にも小さな築山を築き朝鮮式の石層塔を添えている。池の水は、左手奥から暗渠で排され堰の所から開渠で石垣の下を通り外堀に抜ける。池を取り巻く食栽としては、クス、ツバキ、クロガネモチなどとともに、ビロウ、ソテツ、ハラン、オオタニワタリなどが混じり南国の趣きを醸し出している。
 この庭園の特色は、石材の使い方である。護岸や中島の下部構造は河原石に依っているが、水面上の部分は全て近くの火山「鬼岳」の溶岩を用いている。亜熱帯植物の配植と相まってこの地方の風土を表して見事である。
 このように、この庭園は、江戸時代以来の伝統的日本庭園の地方伝播を示す好例であり、かつ、地方の特色ある風土が加味されたものとして貴重である。また、作庭時期が明確であること、建物も一体となって保存されていること、および、保存例の少ない城郭内の庭園であることから、庭園文化史上の価値が高い。

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