細川紙
ほそかわし
概要
奈良時代、平安時代に武蔵国は製紙が行われ、紙が納められていたが、中世における状況については史料が絶える。小川【おがわ】を中心とした比企【ひき】・秩父【ちちぶ】・男衾【おぶすま】三郡が和紙の一大産地に発展するのは、江戸時代、江戸が経済の中心地として飛躍してからのことである。各種の紙が漉かれたが代表的な紙は細川紙であった。
細川紙は、和歌山の高野山麓の紙漉き場 細川村で漉かれた細川奉書【ほそかわほうしよ】を、江戸に手近な武州で漉いたものが民業として大いに発達したものである。その後、本場の細川紙は衰退し、武州の細川紙が盛況となり、名声を博めた。和紙の乾燥に適した天日が十分に照ると、高級で高価な和紙ができ上がるという意味から生まれた「ぴっかり千両」の言葉が、当地から広まったといわれる。
明治時代においても小川町、東秩父村で漉いた和紙の代表的なものは細川紙であったが、その用途は土地台帳、大福帳、記録用紙、蚕封紙、鯉幟、渋紙、綿包紙など強靱性が特に求められるものに広く用いられていたが、次第に需要が減少し、現在は和本用紙、文庫【ぶんこ】用紙(たとう紙)等に使用される。
細川紙は、紙の地合がしまって、紙面にけばだちが生じにくく、きわめて強靱な楮紙【こうぞがみ】で、紙色や紙肌にも楮紙の特色がよく発揮され、剛直で雅味に富んだ味わいを持つ。
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