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池辺寺跡

ちへんじあと

概要

池辺寺跡

ちへんじあと

社寺跡又は旧境内 / 九州 / 熊本県

熊本県

熊本市池上町

指定年月日:19970911
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

H09-07-046[[池辺寺跡]ちへんじあと].txt: 熊本市の西部にそびえる標高665メートルの金峰山から南東へと延びる支脈は、いくつかの小谷を形成しながら裾野を広げて市街地のある平野部へ達する。平野部との境に近く、平川が東流する小谷の西奥、標高130メートルから140メートルの地点に百塚と称される東向きの斜面地が広がり、そこに池辺寺跡が位置する。
 池辺寺は長く伝承の中で語られてきた。文化年間に書写されたという『池辺寺縁起絵巻』は、続日本紀に記録の残る「味生池」のほとりに、大和の僧真澄が寺を建て池に棲む悪龍の害を鎮めたと伝える。昭和33年になって最初の現地踏査が行われると、平川の谷間に寺跡の存在が予想されるようになり、昭和61年度からは百塚地区での本格的な発掘調査が開始され、平安時代の寺跡の様相が明らかとなった。
 明らかとなった遺構には、中心建物群とその背後の斜面に配された石塔群がある。中心建物群は、斜面下辺部を造成した平坦面の中央に段状に築いた南北約22メートル、東西約18メートルの乱石積み基壇の上に配される。建物群は中央建物とその東・南・北面を取り囲む3棟の建物および東面建物と南面・北面建物を結ぶ回廊からなる。中央建物基壇が最も高く、それより北・南面建物基壇は0.35メートル、東面建物および回廊の基壇は約1メートル低い。中央建物は桁行3間、梁間3間の南北棟礎石建物で、中央の礎石1間四方分を除く基壇上面全体に〓(*1)を敷く。中央基壇西辺に沿う幅0.7メートル、長さ11.4メートルの範囲は、凝灰岩切石で舗装されている。南面建物は桁行5間、梁間1間の東西棟礎石建物、北面建物は削平のため全体が明らかではないが、南面建物と同じ規模・構造と推定される。東面建物は桁行3間、梁間2間の南北棟礎石建物である。
 平坦面の西に隣接する一辺約52メートルの区画は、南辺と西辺に石塁がめぐり、東辺には平坦面から約1メートルの高さまで石垣を築いている。北辺部には礫が散在するのみで明確ではないが、石塁があったと考えられている。区画内には人頭大の礫を積み上げた一辺2.4メートル、推定高0.6メートルの塔が、東西・南北各10列で計100基、2.4メートル間隔で整然と配置される。ただし、現存するものは98基である。また、西辺部の石塁は南へ約30メートル、さらに東へ折れて約70メートル延びる。
 出土遺物には土師器・瓦・石製品などがある。土師器は9世紀前半代から10世紀にかけての年代が与えられている。瓦には単弁九弁蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦など9世紀前半ころのものが含まれている。石塔群からは、宝珠数点を含む凝灰岩製ないし砂岩製の相輪が出土している。これらの遺物から、百塚地区において9世紀の前半から10世紀にかけて本格的な伽藍と石塔群が造営されたと考えられる。
 寺跡の北西の西平山中腹に、建武4年(1337)建立と伝える石製塔婆1基があり、通称を「金子塔」といい、池辺寺の来歴を語る。その碑文によれば、和銅年中に創建された池辺寺は、その後貞元元年(976)に焼亡し、やがて移建されたが、「百塔」と呼ぶ地がもとの所在地であったという。池辺寺跡の変遷はなお明らかではないが、この「百塔」は、百塚地区に並ぶ100基の石塔以外にはないと考えられ、この寺跡が池辺寺であることを端的に物語る。平地に近い山中に営まれた石塔群と礫石建物群は、池辺寺独自の構成であり、しかも石塔群は夥しい数の礫を使用する壮大な規模をもち、わが国には他に類例をみない。以上のように池辺寺跡は、山中に営まれた数多くの古代寺院のなかでも、際だった独自性をみせる貴重な寺院跡である。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

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