金鶏山
きんけいざん
概要
金鶏山は、平安時代末期に栄えた奥州藤原氏の拠点、平泉にある独立した小高い山である。平泉には藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡が造営した中尊寺、毛越寺、無量光院及び政庁「平泉館」と推定される柳之御所遺跡などの施設が点在しており、金鶏山はその中央西側に位置する。標高は98.6m、山裾との比高約60mで、なだらかで整った円錐形の山容をみせる。東裾には、広く造成された平坦面に12世紀前半の翼廊を備えた礎石建物が確認されている花立廃寺跡があり、南裾には毛越寺の子院千手院がある。
金鶏山は江戸時代から金の鶏が埋められているとの伝承がある。昭和5年(1930)に、それを掘り出そうとして頂上付近が濫掘された際に、経塚に伴う銅製経筒や陶器の壺・甕などが掘り出された。その際の記録と出土品の写真が残されており、東京国立博物館と千手院には、銅製経筒1点、陶器の壺・甕・鉢計8点、平瓦1点、刀子・鉄鏃残片多数などが保管されている。記録によれば、経筒を納めた穴には玉石や木炭が敷き詰められていたという。陶器には渥美産の壺と片口鉢が各1点、常滑産の三筋壺1点、甕5点がある。確認される銅製経筒と経容器と推定される陶器の壺から見て、経塚は数基は営まれていたと考えられる。陶器はいずれも12世紀代の藤原氏の時代のもので、多くは12世紀半ばから末葉の、三代秀衡期のものが多いが、渥美産の袈裟襷文壺は形態・文様・押印の特徴などから前半代にさかのぼる優品であり、二代基衡期あるいは初代清衡期の末頃に比定される。これらは時期や遺物の内容から見て、藤原氏と密接に関係した経塚と推定される。
一方、金鶏山は平泉の中にあって目立つ山容であり、特別の意味合いを有していたと考えられる。基衡が造営した毛越寺境内の東辺は、金鶏山の山頂から真南に位置し、同時に幅30mの南北道路の西端に当たる。この道路に直交する東西道路は毛越寺の南辺に面し、近年の発掘調査により東に延びて平泉の基幹道路となることが確認されている。これにより、金鶏山は毛越寺の寺域及び基幹道路を設定する際の基準点となったことが知られる。さらに、秀衡が造営した無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂を模した阿弥陀堂であるが、東面する本堂とその正面にある中島の中軸線を西に延長すると金鶏山の山頂に達する。中島から本堂を望むとその背景に金鶏山が横たわり、春秋の彼岸頃にはその頂にまさに夕日が没し、西方に極楽浄土を想念する日想観を試みる場でもあったと考えられる。
このように、金鶏山は平泉の中にあって、藤原氏と密接に関係したと考えられる経塚が営まれるとともに、毛越寺や基幹道路など平泉の都市計画上の基準点として利用され、かつ無量光院と一体的に宗教世界を構成するなど、平泉において特別な歴史的意義を有している。また、平泉のどこからでも望めるその山容は景観上も重要な位置を占めている。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。