木造金剛力士立像
もくぞうこんごうりきしりゅうぞう
概要
木造金剛力士立像
もくぞうこんごうりきしりゅうぞう
室町後期
(阿形)
構造:寄木造、彩色、玉眼(破損)。両足、髻・両腕・手・手首・裾張り出し部・天衣・足・足先などを接ぐ。
形状:髻は三束に結う。口を開け舌を見せる。上半身裸形で、着衣は天衣・裙を着ける。左手を曲げて振り上げ独鈷杵を取る。腰を左に捻り、右足を踏み出して立つ。彩色は錆下地に砥粉地彩色で肉身を朱色であらわす。裙に輪宝文様を漆箔治の上に墨線で描く。
(吽形)
構造:寄木造、彩色、玉眼(玉眼欠)。内側に骨組みの板を前面、側面、背面に補強材として入れる。両足、両腕、衣の張り出し部分、天衣、髻などを接ぐ。
形状:髻をつけ、口を閉じる。右手を曲げて掌を前に向け、左手を腰に当てて拳を握る。腰を右に捻り、左足を踏み出して立つ。彩色は阿形と同じ。
(阿形)像高348.5㎝、面高65.1㎝、肩張り126.0㎝、胸奥78.7㎝
(吽形)像高339.0㎝、面高63.5㎝、肩張り145.5㎝、胸奥91.0㎝
2躯
防府市指定
指定年月日:20140226
有形文化財(美術工芸品)
国分寺は、周防国の国分僧寺として創建され、『続日本紀』天平勝宝8年(756)の項に初見記事があるため、この頃までには一定の整備は行われていたとみられる。
金剛力士立像の制作や伝来に関する詳細な記録は伝わっていないが、同像が安置されている国分寺の楼門(仁王門)については、応永24年(1417)の一山火災焼失後大内氏により再建、文亀3年(1503)には修復が行われている。また文禄5年(1596)毛利輝元により再建された記録(棟札写)があり、同像は応永24年の焼失以後、文禄5年の再建時までには制作されていたと考えられる。(なお、現存の仁王門は資料や建物部材、細部の様式などから明和4年(1767)再建が妥当とされている。)