琉球国時代石碑
りゅうきゅうこくじだいせきひ
概要
琉球王国では、首里・那覇を中心にして多くの石碑が建てられた。これらの石碑の多くは、第二次世界大戦における沖縄戦の戦火によって破壊されてしまった。戦後に破片が回収され、沖縄県所有となって保存されている石碑が二五基を数える。すべて年紀を有しており、最古のものは、唯一、第一尚氏時代にまで遡る尚巴志六年(一四二七)に建てられた「安國山樹華木之碑」である。固い石材にもかかわらず表面は摩耗していて判読しにくいが、碑文はほぼ残存している。この碑文の内容は多岐にわたるが、永楽十五年(一四一七)に国相懐機が王命により明・北京に赴いたことや、王城外において安国山を高くし、池(龍潭)を掘り、樹木を植えたことなどが記されている。ほかの石碑の内容は、架橋や港湾の改修など建築・土木工事の記念碑が一五基と多く、国王の事績を称えたもの、墓碑、下馬碑、供養碑、中国から国王を冊封するために派遣されてきた冊封使の墨蹟などがある。
石碑の形状は、縦長の平たい石材を用いて最上部を半円形に作られたものが多い。碑身には碑文が刻まれ、その周囲には唐草文などの装飾が施されたものや、碑面上部の碑額には題字が刻まれたものもある。碑最上部の碑首には、日輪双鳳雲文などの装飾を施されたものが多い。碑文の文字は、当初は漢字が用いられていたが、尚真四十六年(一五三二)の「真珠湊碑文」などでは平仮名で記された琉球文が用いられている。このような平仮名の石碑は一六世紀初頭から一七世紀前期までみられる。年紀はすべて中国年号が採用されている。材質は、一五世紀までは中国からの輸入石材である輝緑岩とみられ、それ以降はおおむね沖縄本島に産するニービヌフニ(細粒砂岩)となる。
琉球では、漢字と仮名を併用するなど独自の石碑文化を発展させてきた。これらは琉球文化をよく体現し、かつ、紙史料の不足を補うものとして、琉球史研究上、極めて貴重である。