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明治二年奥州出征米国船ハーマン号勝浦沖遭難絵巻

めいじにねんおうしゅうしゅっせいべいこくせんはーまんごうかつうらおきそうなんえまき

概要

明治二年奥州出征米国船ハーマン号勝浦沖遭難絵巻

めいじにねんおうしゅうしゅっせいべいこくせんはーまんごうかつうらおきそうなんえまき

絵図・地図 / 明治 / 関東 / 千葉県

久米清淵

千葉県

明治/1883

1巻15紙

縦:41.5㎝・全長:583㎝

一巻

千葉市中央区青葉町955-2

千葉県指定
指定年月日:20210319

勝浦市

有形文化財(美術工芸品)

慶応3年(1867)10月に大政奉還が行われ、同年12月に王政復古の大号令を経て明治新政府が発足したものの、榎本武揚らが率いる旧幕府軍は、蝦夷地の箱館五稜郭を拠点に、新政府に対して抵抗を続けていた。蝦夷地に隣接する弘前藩は、新政府より旧幕府軍の鎮定を命じられると、藩主である津軽承昭は実兄である熊本藩主細川韶邦に援兵を依頼した。熊本藩は明治2年(1869)正月2日、寺尾九郎左衛門を将とする総勢349人を、借り上げた米国船籍のハーマン号に乗艦させ、江戸高輪沖から弘前藩の救援に向かわせた。しかし、翌3日深夜から4日早朝にかけて、上総国夷隅郡河津村(現千葉県勝浦市川津地区)の沖合で船が座礁し、208人が溺死、141人が生還した(人数は本絵巻物の詞書による)。この遭難を絵と詞書によって記したのが本絵巻物である。
 絵巻物の構成は、絵が6紙、詞書が9紙である。奥書によれば、ハーマン号で遭難した人の経験談による絵を、久米清淵が写し取り、後年、同じ村に住んでいた生存者である里範九郎(志馬之助)と出会い、範九郎の話を聞いて明治16年(1883)に詞書を清書し、写しておいた絵を新たに仕上げ、1巻の絵巻物にまとめたとある。詞書には、里範九郎の話が追筆として記載されている部分があるなど、ハーマン号で遭難した範九郎の実体験に基づく記述がある。本絵巻物はその後、里範九郎家に伝来し、ハーマン号が遭難した勝浦市に寄贈された。

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