藤原定家書状 「山門状」
ふじわらのていかしょじょう「さんもんじょう」
概要
定家自筆の書状で、書き出しの語句「山門衆徒・・・」を冠して、古くから「山門状」と呼ばれている。平安の昔から比叡山延暦寺の山法師は、願いを朝廷が聞き入れないときには山下日吉神社の神輿を都に動座し、嗷訴するのが常で、しばしば朝廷を悩ませてきた。この書状は、延暦寺末寺大山寺の神人が石清水八幡宮に属する筥崎宮留守職に打ち殺された事が発端で、延暦寺(山門)側が石清水別当宗清の処罪と石清水領を延暦寺領とする要求を朝廷に提出、これが受け入れられないため神輿動座におよんだ事件に対し、石清水側には罪科を科せず、山門側には神輿を帰座するようにとの院宣が下ったとの宮中での評定の結果を、義兄の藤原公経(一一七一-一二四四)に報じている。この内容から建保六年(一二一八)、定家五十七歳の書状であることが判明する。なお、本作品は、初代義直の所蔵品であった。
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