『高岡銅工ニ答フル書』 たかおかどうこうにこたうるしょ

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歴史資料 / 明治 / 富山県 

林忠正 (1853~1906)
はやしただまさ
富山県高岡市
明治19年/1886年
紙本墨書
縦27.3cm×横19.0cm
1冊(「林忠正草稿」用箋17枚綴)
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-07-01-10

 高岡銅器の名工・白崎善平(1837~92)は輸出の不況を憂い、パリの林忠正に対策の教示を請うた。忠正は高岡出身で、西洋と日本との美術文化交流に寄与した美術商。本資料はそれに答えたもので、世界的視野から当時の日本美術工芸の傾向及び海外輸出の現況を分析し、「西洋人の『用』を考えた機能と形態の重視が必要である」などと助言をしている。
 本書はその成立に至るまでに幾つかの段階を経ている。忠正がパリで書いたとされる草稿は、その題を『高岡銅器維持ノ意見』といい林家に伝世している。その草稿は忠正の弟らの仲介で、「旧師笹原両先生」の推敲を経て、何冊か浄写されて白崎をはじめ親戚などに配布された。本書はそのうち、忠正の実家である長崎家に伝わったものである。また「旧師笹原両先生」とは高岡の教育家・笹原(のち原と改姓)北湖(雀斎)・遂初父子のことと思われ、この推敲により全体に表現が穏便に変更されている。
 また本書は龍池会(日本美術協会の前身)会員・山本五郎により、『龍池会報告』第20号(明治20年1月20日)、同第21号(同年2月20日)に2回分載もされている。

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【林 忠正】はやし ただまさ
  1853・12・7~1906・4・10(嘉永6・11・7~明治39)
 明治期に西欧との文化交流に尽くした先覚者。高岡一番町(現高岡市)の蘭方医長崎言定(げんてい)の2男として生まれる。幼名重次(志藝二/しげじ)。1870年(明治3)10月富山藩大参事林太仲の養嗣子となり林忠正と改称。直ちに上京して村上英俊の〈達理堂〉でフランス語を学び,翌年藩の貢進生となり大学南校に入学。東京開成学校を経て東京大学に進む。専攻は理学とフランス語。78年1月卒業を半年後に控えて大学を中退,パリ万国博の通訳としてフランスに渡る。博覧会終了後に起立工商パリ支店に入社したが,83年1月独立して美術店を開く。渡仏の目的は理工学の研究だったが,ジャポニズム興隆の波の中で自然に日本文化の伝達者の役割を負わされ,モネ・ドガ・リヴェール・ゴンクール・ゴンス・ビュルティーら印象派の画家や進歩的文学者らと深く交流し,美術商兼評論家として活躍。浮世絵や美術工芸品を大量に輸出し印象派の発展やアールヌーボーの成立に寄与したことは有名である。
 日本における国粋主義的美術運動に対抗して西洋画の推進を図り,明治美術会や黒田清輝の活躍を援護した。さらに東京に西洋美術の美術館の設置を政府に働き掛け,自らも西欧近代美術を収集し日本に初めて印象派の絵画を紹介したが,宿願の美術館建設は果たせなかった。伊藤博文・西園寺公望の信任が厚く,1900年のパリ万国博事務官長を命ぜられて日本文化を系統的に海外へ紹介した功によってフランス政府よりレジョン・ドンヌール勲章を授与される。05年5月帰国。国策に沿って資源開発事業などを計画していたが,翌年病没した。享年54歳。〈定塚武敏〉
(『富山大百科事典[電子版]』北日本新聞社、2010)

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編者:室谷太郎吉(高岡定塚町378番)、出版人:塩谷与右衛門(高岡定塚町3丁目)

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