明治31年11月6日付 西園寺公望書簡(林忠正三兄弟宛) めいじさんじゅういちねんじゅういちがつむいかづけ さいおんじきんもちしょかん はやしただまささんきょうだいあて

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文書・書籍 / 明治 / 富山県 

西園寺公望 (1849~1940)
さいおんじきんもち
富山県高岡市
明治31年11月6日/1898
紙本・継紙(巻子装)・墨書
本紙:縦17.8㎝×横84.2㎝、全体:23.3㎝×205.8㎝(軸長:26.2㎝)
1通
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-161
高岡市(高岡市立博物館保管)

 明治後期から大正期に首相を2度務めた「最後の元老」こと西園寺公望(1)の書簡。宛先は高岡出身でパリを拠点に活躍した美術商・林忠正(2)と二人の弟(3)(4)である。内容は東京帝大法科大学を卒業した筧 克彦(5)がドイツに留学する際にパリを経由するので、案内を依頼した紹介状である。封筒には切手はなく、「筧克彦君持参」とあるので、筧が直接パリの中心部(ヴィクトワール通り65番地)にあった元忠正の店(明治31年7月、忠正は33年のパリ万博事務官長に正式就任したので、弟・萩原正倫に店を譲った)に持参したものと思われる。
 忠正はフランスに10年間の留学経験もある西園寺と親しかった。この書簡の前年の明治30年(1897)、渡仏中の西園寺と林三兄弟が揃った写真が残っており、その親密さがうかがえる。さらに同年(6)、西園寺が虫垂炎(盲腸)にかかった際には、忠正三兄弟が手厚く看護し、特に医師の長崎千里は手術せずに治療し、南仏への療養にも随行したことがあった。西園寺は帰国後、東京の忠正邸にわざわざ自身で来訪し、礼を述べたという(7)
 しかし、西園寺はこれ以降、虫垂炎の後遺症を何度か発するようになった。病がようやく癒え、明治31年(1898)1月に第3次伊藤内閣が成立すると、再び文部大臣となった。文相時代には第二次教育勅語の作成にあたったが、実現しないまま虫垂炎の後遺症を発病し、4月30日に辞任した(8)
 本書簡はそれをうけて、冒頭の「小生病気も順次回復、此分にてハ再発之掛念も先ハ無之候間、乍憚御休神被下度候(私の病気は順次回復しており、この分では再発の懸念もまずは無いと思いますので、ご安心ください)」となる。
 末尾の「本邦政府も又々瓦解、新内閣成立致候(わが国の政府も又々瓦解し、新内閣が成立しました)」というのは、第2次松方正義内閣(1896年9月18日~1898年1月12日)から、続く第3次伊藤博文内閣(同日~同年6月30日)という短命の内閣が続き、新内閣となる第1次大隈重信内閣が同日成立した時期にあたることをいう。ちなみに、この書簡の2日後(11月8日)に第1次大隈内閣は倒れている。
 追伸には、「過般新聞雑志等到着候処、右ハ貴家の編ならんかと存候(先頃、新聞・雑誌等が到着しました。これは貴方の編纂ではないでしょうか)」とあり、西園寺との親密具合がうかがえる。また、忠正の「編」になる新聞雑誌とは何か気になるが、忠正は西欧の日本美術展覧会のパンフレットやカタログをはじめ、研究者の著述に多大な協力をして、その出版(9)を助けたので、その内の一部であると思われる。
 本資料は忠正が渡仏邦人の“窓口”的役割を果たしていたことや、西園寺と濃密な関係をもった林忠正、及び二人の弟との関わりの一端を示すものである。

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【釈文】

拝啓、其後ハ無申訳御
無音仕候、如何御起居候
哉、伏惟万福、小生病
気も順次回復、此分にてハ
再発之掛念も先ハ無
之候間、乍憚御休神被
下度候、然ハ筧克彦君
此度錦地経過、独逸ニ
被趣候処、錦地ハ始てに付、
御尋も申候節ハ御示教
を仰き度、小生ゟ御依頼
申候、法科大学卒業生にて
大学校ニ入り研究、此度
文部省ゟ派遣候人ニ有
之に、呉々も宜布願上候、
委細ハ本人より御聞取被
下度候、本邦政府も又々
瓦解、新内閣成立致候、
然ニ有之候、是又本人ゟ
御話可申候、書不尽言有、
御紹介迄、草々頓首、
  十一月六日  公望

 林忠正様
 長崎(千里)
 萩原(正倫)
    梧右

追而過般新聞雑志
等到着候処、右ハ貴
家の編ならんかと存候、
果して然らバ千謝不
□候、


〔封筒〕
(表)「Messieurs Hayashi Nagasaki Hagiwara/
65 Rue de la Victoire Paris」
(裏)「(スタンプ)「T.HAYASHI/21 DEC 98/
35 Rue de la Victorie/PARIS」/
筧克彦君持参/西園寺公望」


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【注】
※1.【西園寺 公望】さいおんじ きんもち
  生年:嘉永2(1849)・10・23(新暦12・7)
  没年:昭和15(1940)・11・24
 公卿、政治家。清華(せいが)家(公家の摂家に次ぐ家格)の一つ徳大寺家当主徳大寺公純(きんいと)の次男として誕生。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)。2歳の時に、同族で清華家の西園寺師季の養子となる。戊辰戦争で山陰道鎮撫総督を務めた。1869年に京都御所内の私邸に家塾「立命館」を開設(現立命館大学)。1870年パリのソルボンヌ大学に留学。1880年に帰国し、明治法律学校(現明治大学)を設立。また松田正久、中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊したが、天皇の内勅で辞職。1882年伊藤博文の憲法調査の外遊に随行。1884年、女流作家ジュディット・ゴーティエと共に和歌を仏訳し、山本芳翠が挿絵を描いた詩画集『蜻蛉集』を出版。オーストリア公使、ドイツ公使、貴族院副議長などを歴任。第2次伊藤内閣で1894年10月、初入閣し文部大臣となる。1897年、京都帝国大学創設などに尽力。第3次伊藤内閣でも文部大臣、枢密院議長を経て1903年立憲政友会総裁。1906年内閣総理大臣として第1次西園寺内閣を組閣。以後桂太郎と交代で政権を担当して桂園時代と呼ばれた。1908年総辞職、1911年に第2次西園寺内閣を組閣したが、翌1912年末、陸軍の倒閣策謀で辞任。その際、天皇の指名で元老となる。1919年にはパリ講和会議の首席全権となる。大正末期からは最後の元老として後継首班を推薦、保守の立憲政友会、憲政会 (立憲・民政党) の両党が交代する方式をとった。しかし犬養毅首相暗殺のあと、陸軍強硬派の突出を抑えきれず、二・二六事件で軍部が実権を握り、宇垣一成の組閣が阻止されると、後継首相の推薦も逐次内務大臣中心の方式に改められた。
(高岡市美術館他『フランス絵画と浮世絵―東西文化の架け橋 林忠正の眼―展』図録、1996/
「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」2020.6.4アクセス)


※2.【林 忠正】はやし ただまさ
  生年:嘉永6(1853)・11・7(新暦12・7)
  没年:明治39(1906)・4・10
 明治期の美術商。高岡の蘭方医・6代長崎言定(正国)の次男として越中(富山県)高岡一番町に生まれる。初名は志芸二(重次)。明治3年(1870)富山藩士林太仲の養嗣子となり上京、大学南校(現東京大学)に学ぶ。11年起立工商会社臨時雇として渡仏、パリ万博の仕事に携わる。17年1月パリ(郊外のシテ・ドートヴィル7番地)に美術店を開業。同年7月、若井兼三郎(起立工商会社の元副社長)と共に「若井・林組」を開業(主に高価な工芸品や中国美術などを扱う)。同年、法律を学ぶために渡仏してきた黒田清輝を画家に転向させる。大英博物館など西欧各美術館・博物館の日本美術品を鑑定・整理する。また米にも進出。19年(1886)パリの中心部ヴィクトワール通り65番地に店を移転し、浮世絵や鐔など日本・東洋美術品を扱う。パリを中心にゴンクールや印象派の画家たちと広く交友、当時盛行したジャポニスムに、日本美術紹介者として重要な役割を果たした。また渡欧してきた有栖川宮・伊藤博文・西園寺公望・山県有朋・曾禰荒助ら政府高官等を歓待し、また美術家をはじめ日本人の通訳からホテルの世話などをよくしたという。19年、輸出不振に悩む郷里高岡の銅器業・白崎善平に『高岡銅器維持ノ意見』(高岡の儒学者に『高岡銅工ニ答フル書』と改訂される)を送る。22年(1889)「林商会」として独立し、東京(本店)とパリに店を設ける。29年(1896)秋、浅野総一郎(現氷見市出身)とロシア旅行(浅野、渋沢栄一らと石油の採掘事業を計画)。33年(1900)年第5回パリ万博では民間人初の博覧会事務官長となる。仏政府よりレジオンドヌール勲章を、日本政府より勲四等旭日小綬章を受章。35年商店を閉じ、翌年にかけ売り立てを行う。39年帰国し同年東京で没。墓(題字は曾禰荒助)は谷中坂町の本寿寺(日蓮宗)にあったが、昭和37年、千葉県八千代霊園に改葬され、現在は孫嫁の作家・林忠正研究者、木々康子氏が建立した横浜の「八景苑」(横浜市金沢区六浦町2254)の「蒼龍の墓」に眠っている。日本に西欧近代画の国立美術館の設置を目指して収集していたコレクションは散逸した。
(高岡市美術館他『フランス絵画と浮世絵』図録、1996/
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、2020.6.4アクセス/
林忠正シンポ実行委『林忠正』2007、ブリュッケ/木々康子『林 忠正』ミネルヴァ書房、2009)


※3.【長崎千里】ながさき せんり
  生没年未詳
 医師。忠正の弟(長崎言定四男)。魚津で医師をしていたが、兄を助けに(または勉学のため)明治26年(1893)2月、渡仏。30年(29年?)、渡仏中の西園寺公望が盲腸炎にかかった時、切らずに治し、南仏への療養にも随行した。のち滋賀県大津市で病院長となった。
(林忠正シンポジウム実行委員会『林忠正―ジャポニスムと文化交流』2007,ブリュッケ/
定塚武敏『画商 林忠正』北日本新聞社、1972)


※4.【萩原正倫】はぎわら まさとも
  明治元年(1868)生(月日未詳)
  明治35年(1902)1月9日没
 美術商。忠正の末弟(長崎言定五男)。萩原は長崎家の先祖の姓。明治22年(1889)兄忠正が独立し「林商会」を東京(本店)とパリ店を設けると、正倫は渡仏し、パリの留守役となる。31年(1898)7月、忠正が2年後のパリ万博事務官長に正式就任すると、忠正は店から退き、正倫が引き継ぐ。しかし、ジャポニスムの流行も鎮まっており、業績は振るわなかった。34年秋、結核に罹り、翌年パリにて死去(享年34)。モンパルナス墓地に葬られる。
(林忠正シンポジウム実行委員会『林忠正―ジャポニスムと文化交流』2007、ブリュッケ)

※5.【筧 克彦】かけい かつひこ
  明治5年(1872)11月28日生
  昭和36年(1961)2月27日没
 憲法学者。長野県に生まれる。東京帝国大学法科大学卒業後、同大学院に入り、翌年(1898)から6年間ドイツに留学して、ギールケ、ディルタイなどに師事した。同大学教授となり、憲法学、法理学、行政法を専攻。穂積八束(ほづみやつか)、上杉慎吉らの天皇主権説を継承し、神道的国家主義を主張した。かんながら(神道)憲法学派ともよばれる。彼は古神道・仏教の研究を経て、天皇の神格を信じ、現神(あきつかみ)である万世一系の天皇が治め給う大日本帝国が人類世界を統一し、支配するのが当然であることを説き、国家主義の立場にたつ憲法学者として、第二次世界大戦前には軍部、右翼の理論的支柱として活躍した。大戦中は「大政翼賛」「八紘一宇」を講じた。主著に『大日本帝国憲法の根本義』『古神道大義』『神ながらの道』『国家の研究』などがある。
(池田政章『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館)

※6.木々康子『林 忠正』ミネルヴァ書房、2009、p293によると、西園寺の虫垂炎発症は明治29年(1896)とあり、回復後「医師である長崎につき添われて南仏に滞在していた」とある。

※7.林忠正未亡人懷古談
「西園寺公爵からいつも引立てていただいておりました。公爵がフランスへ行かれた時、あちらで盲腸炎にかかられましたが、その時忠正は弟の長崎千里―この方は医者で後に大津で病院の院長になりました。―と共に、随分と努力いたしました。その結果遂に手術もせずに癒られました。ということで、公爵は帰国されてから御自身で私共の家までわざわざそのお礼に見えられました」
(玉林晴朗「林忠正未亡人懷古談」『浮世絵界』第三号、1938年11月号、pp22~25,18/
上記を引用:定塚武敏『海を渡る浮世絵―林忠正の生涯―』美術公論社、1981年、p124)

 ちなみに西園寺は、明治29年(1896)5月に外相となり、文部大臣と兼任したが、8月に伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日間大臣を務めた後、両大臣を辞任した。11月には 法典調査会副総裁も辞任し、フランスへと旅立った。西園寺はフランスで教育制度や軍の内閣による統制などを研究するつもりであった。しかし、翌年(1897年)に虫垂炎にかかって瀕死の状態となり、「自殺する権利すらある」と主張して皆が止めるなか帰国した(10月5日、日本着)。
(伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』文藝春秋、2007年、pp.92-95)

※8.伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』文藝春秋、2007年、pp.100-101。

※9.忠正が協力した主な書籍を列記する。
 ・1881年、ルイ・ゴンス『日本美術』。
 ・1891年、エドモン・ド・ゴンクール『歌麿』。
 ・1896年、エドモン・ド・ゴンクール『北斎』。

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