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年月未詳26日付 島田孝之宛犬養毅書簡

ねんがっぴみしょうにじゅうろくにちづけ しまだたかゆきあていぬかいつよししょかん

概要

年月未詳26日付 島田孝之宛犬養毅書簡

ねんがっぴみしょうにじゅうろくにちづけ しまだたかゆきあていぬかいつよししょかん

文書・書籍 / 明治 / 富山県

犬養 毅  (1855~1932)

いぬかい つよし

富山県高岡市

(明治期)年月未詳26日付

紙本・墨書

縦17.9㎝×横49.0㎝

1

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-27-1

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

犬養(注1)が島田(注2)に宛てた書簡。「議会は全然面白く無いので、いつでもご都合のよい時に、「蔵六庵」に来てください。明日は幸いに休日です。昼頃よりお越しになってはいかがですか。」としきりに誘っており、二人の親密さがうかがえる。
 年代は未詳。島田が上京し大隈重信ら立憲改進党幹部と昵懇になった、明治15年(1882)9月以降、島田が亡くなる同40年(1907)の間であることはいえるであろう。
 本史料にはヤケ、シミ、虫損などがみられる。
 寄贈者によると、本史料の入手経緯や、もう1点の島田宛書簡(田口卯吉より)となぜ同じ扁額に表装したのかなどは不明とのことである。

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【釈文】
過日来諭し候如く、
議会も一向面白か
らす、イつにても御都合
次第、蔵六庵に
参るべし、明日此幸に
休日也、昼頃ゟ出掛
てハ如何哉、明昼ハ
在庵致候、兎に角
此方角へ御出掛被
成候てハ如何、
       木堂
念六日
湘洲老兄

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【意訳】
先日から言っていたように、議会は全然面白く無いので、いつでもご都合のよい時に、「蔵六庵」に来てください。明日は幸いに休日です。昼頃よりお越しになってはいかがですか。明日の昼は在宅しております。とにかくこちらへお出かけなされてはいかがですか。

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【注】
1.【犬養 毅】いぬかい つよし(1855~1932)
生年:安政2.4.20(1855.6.4)  没年:昭和7.5.15(1932)
 明治大正昭和期の政党政治家。名は「つよき」とも読む。号は木堂。備中国(岡山県)庭瀬藩士犬養源左衛門と妻嵯峨の次男。明治8(1875)年上京,慶応義塾在学中から『郵便報知新聞』記者として活動する。14年統計院に入るが,同年の政変で辞職,15年立憲改進党の結成に参加。23年第1回総選挙で当選,以後暗殺されるまで連続当選した。29年進歩党,31年憲政党の結成に参加,同年第1次大隈重信内閣の文相就任。その後,憲政本党の内紛を制し43年立憲国民党を結成する。大正1(1912)年から2年の第1次憲政擁護運動では憲政の神様とまで呼ばれたが,6年寺内内閣の臨時外交調査委員会に参加したため売節と批判される。この時期から国家総力戦の発想を持ち始め,普通選挙,産業の近代化,軍縮を唱え始める。この間,中国で日本の秀でた地位をつくろうとして大陸浪人を庇護するとともに孫文を支援し,辛亥革命(1911)が勃発すると中国で画策するが失敗した。11年革新倶楽部結成,12年第2次山本権兵衛内閣の逓相,13年第2次憲政擁護運動を主導,同年第1次加藤高明内閣の逓相,14年革新倶楽部を立憲政友会と合同させたのち,政界を引退したが,後援者たちに推されて,衆院議員に再選,昭和4(1929)年死去した田中義一政友会総裁の後継となり,6年内閣を組織したが,7年5・15事件で暗殺された。その生涯を通して政党政治の実現を目指した政治家であった。<参考文献>鷲尾義直編『犬養木堂書簡集』,木堂先生伝記刊行会編『犬養木堂伝』全3巻(復刻版,1968),時任英人『犬養毅』(時任英人)
(HP「朝日日本歴史人物事典」1994、朝日新聞出版/2018年9月19日アクセス)

2.【島田孝之】しまだ たかゆき (1850~1907)
  1850・6・12~1907・1・15(嘉永3・5・3~明治40)
 政治家・立憲改進党系の自由民権運動家。砺波郡般若野(はんにゃの)村島新(現高岡市中田)に島田三郎の長男として生まれる。幼名孝太郎,のち孝之(たかゆき)と改める。字(あざな)は維則(いそく),湘洲(しょうしゅう)と号す。幼いとき漢学を隣村の河合神城に学ぶ。その後高岡の待賢室(たいけんしつ)で野上文山に学び,さらに金沢・東京にも遊学する。気慷慨(こうがい)にして気節を尊び,特に歴史を好んで古い英雄の言行を慕った。1877年(明治10)青森県庁に勤務し,79年青森県野辺地警察署長となったが,81年帰郷。同志を集めて出町に学習結社〈北辰社(ほくしんしゃ)〉を創設した。翌82年5月9日から11日まで高岡の超願寺に有志約50人が集まり,島田の主唱で越中改進党を結成。趣旨は稲垣示の北立自由党のように過激紊乱(ぶんらん)することを望まず,皇統を保持して国憲を拡張する善良な改進を旨とした。同年9月孝之は単身上京。大隈重信ら立憲改進党幹部と議論した結果,越中改進党は中央の改進党に合併し団結を強めることになる。
 82年9月石川県会議員に選出された島田は,翌年5月の分県とともに8月から引き続き富山県会議員として活躍する。86年には県会議長に選ばれ,県内改進党を代表して条約改正・地租軽減・言論の自由の3大スローガンを建白のため上京。北陸鉄道(富山‐武生間)の仮免許取得に成功する。この間85年10月10日に今石動越前町から民権啓蒙雑誌『北辰雑誌』を創刊,88年ごろまでに50号ほどを発行する。これは東京日日新聞社にいた海内果が小杉で『相益社談』を発行したことに倣(なら)った文明開化の評論雑誌で,87年に5000部余り発行。「保安条例」による弾圧で86年に2回72日間,翌年に1回45日間も発行停止を受
けた。
 88年2月11日帝国憲法発布の式典に参列した島田は,90年の第1回衆議院議員選挙に当選,以来97年まで4選を果たす。また改進系の『富山日報』社長として地方文化の開発に尽くし,晩年は県農工銀行頭取として清廉高潔の志操を通した。民権と憲政のため資産を失ったが,慷慨(こうがい)の詩と書をよくし,特に詩は来越の木蘇岐山の指導を受け,内山松世と富山に湖海吟社を興し「薄游小稿(はくゆうしょうこう)」「湘洲詩紗(しょうしゅうししょう)」を遺(のこ)した。享年58歳。〈稲垣剛一〉
(HP「富山大百科事典[電子版]」2010、北日本新聞社/2018年9月19日アクセス)

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