五律 ごりつ

 / 明治 / 富山県 

島田孝之 (1850~1907)
しまだたかゆき
富山県高岡市
明治32年/1899年
紙・軸装・墨書
[本紙]縦136.0cm×横34.0cm
[軸長]36.7cm
[全体]縦178.0cm×横34.0 cm
1
富山県高岡市古城1-5
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

本資料は、島田孝之(※1)の本林篤(※2)を悼んだ五言律詩(五律)の書である。本資料は仮表装されており軸装であるが裏打ちされていない。軸先はついておらず軸木がむき出しである。また半切(約 34.8 × 136.3 cm)の形態をとってはいるが、紙を繋ぎ合わせて半切の大きさにしてあるので将来的に修復の必要がある。なお本紙右側に虫損はあるが文字には達していない。
本資料は3列からなり1行に17文字が2列、1行に6文字が1列の計40文字の五律(5字×8句)の形を取っている。3列目の4~6字目「前路悠」は草書色が強いが概ね行書で書かれた作品と言える。起筆も終筆も整っており早書きした点は見受けられない。墨をたっぷりと含んだ行書特有の柔らかさと空筆があり気持ちが途切れることなく書き上げた作品といえる。
同資料は「父、本林篤は本林家第九代の主で明治28年39歳の時、肺を患い医学博士北里柴三郎先生の治療を受けていたが明治31年12月29日、筆子ヶ岡養生園(正:土筆ヶ岡養生園 北里研究所北里柴三郎記念室 <平成29年11月16日アクセス確認>)において42歳で死去。高岡市木津楼で追悼会を行い□余人、知人、友人より詩歌を贈られた。」との箱書きがある大量に詩文が入っている箱に入っていたうちのものと思われる。この箱は入手できなかった。(別紙添付)


落款は「悼本林篤君湘洲孝敬具」、印章は白文方印「臣孝之印」、白文方印「維則」とある(引首印は朱文楕円印「志不□/一日隊士」)。維則は島田の字(あざな)である。
内容は島田と同じ立憲改進党の本林篤の死を悼んだ五言律詩である。以下翻刻と訳を記す。
【翻刻】
謇諤負寄節 片言不敢違 一朝棄吾逝 天道
是耶非 風雲二十載 気節抜時流 飄忽騎龍
去 海山前路悠 
【訳】
  ああ、頼りにしていたのに私の心に背いてある朝逝ってしまった。天道はないのではないか。風雲二十年、気骨があり時流を抜けあっというまに龍に騎って去って行ってしまった。はるか遠くにいってしまった友を憂える。

島田孝之は自由民権運動の創始者で気骨の民権政治家である一面、湘洲と号し漢詩を好んだ。父の三郎が学業で身をたてさせようとした幼児期、下山田(島田家のある島新の隣)の河合神城(※3)の「混放洞」に入らせたのが漢学にふれるきっかけとなる。後に高岡の野上文山(※4)の「待賢室」で学んだ。文山は孝之の文章を評して山陽の気格を帯びているといった。(『中田町史』327p)ちなみに野上文山の学舎には越中自由民権の先駆者である稲垣示(※5)も漢学を修めている。その後も木蘇岐山(※6)をはじめ多くの文人墨客との交流が多く天与の誌材はその一生を長短の漢詩に託した作品が極めて多い。ちなみに島田孝之著の漢詩集『湘洲詩鈔』(※7)には本作品は掲載されていない。島田孝之の作品は『中田町誌』『顕彰紀要』に「天上風雲~」の書作品が掲載されているが同印章は押されていない。当館には湘洲の資料はなく貴重な作品と言える。

※1【島田孝之】(しまだ たかゆき)
1850・6・12~1907・1・15(嘉永3・5・3~明治40)政治家・立憲改進党系の自由民権運動家。砺波郡般若野(はんにゃの)村島新(現高岡市中田)に島田三郎の長男として生まれる。幼名孝太郎,のち孝之(たかゆき)と改める。字(あざな)は維則(いそく),湘洲(しょうしゅう)と号す。幼いとき漢学を隣村の河合神城に学ぶ。その後高岡の待賢室(たいけんしつ)で野上文山に学び,さらに金沢・東京にも遊学する。気慷慨(こうがい)にして気節を尊び,特に歴史を好んで古い英雄の言行を慕った。1877年(明治10)青森県庁に勤務し,79年青森県野辺地警察署長となったが,81年帰郷。同志を集めて出町に学習結社〈北辰社(ほくしんしゃ)〉を創設した。翌82年5月9日から11日まで高岡の超願寺に有志約50人が集まり,島田の主唱で越中改進党を結成。趣旨は稲垣示の北立自由党のように過激紊乱(ぶんらん)することを望まず,皇統を保持して国憲を拡張する善良な改進を旨とした。同年9月孝之は単身上京。大隈重信ら立憲改進党幹部と議論した結果,越中改進党は中央の改進党に合併し団結を強めることになる。
 82年9月石川県会議員に選出された島田は,翌年5月の分県とともに8月から引き続き富山県会議員として活躍する。86年には県会議長に選ばれ,県内改進党を代表して条約改正・地租軽減・言論の自由の3大スローガンを建白のため上京。北陸鉄道(富山‐武生間)の仮免許取得に成功する。この間85年10月10日に今石動越前町から民権啓蒙雑誌『北辰雑誌』を創刊,88年ごろまでに50号ほどを発行する。これは東京日日新聞社にいた海内果が小杉で『相益社談』を発行したことに倣(なら)った文明開化の評論雑誌で,87年に5000部余り発行。「保安条例」による弾圧で86年に2回72日間,翌年に1回45日間も発行停止を受けた。
 88年2月11日帝国憲法発布の式典に参列した島田は,90年の第1回衆議院議員選挙に当選,以来97年まで4選を果たす。また改進系の『富山日報』社長として地方文化の開発に尽くし,晩年は県農工銀行頭取として清廉高潔の志操を通した。民権と憲政のため資産を失ったが,慷慨(こうがい)の詩と書をよくし,特に詩は来越の木蘇岐山の指導を受け,内山松世と富山に湖海吟社を興し「薄游小稿(はくゆうしょうこう)」「湘洲詩紗(しょうしゅうししょう)」を遺(のこ)した。享年58歳。
                  (稲垣剛一『富山大百科事典』)

※2【本林篤】(もとばやし あつし)
(1857~1898)作道村初代村長の本林篤は立憲改進党に入党し、自由民権運動に活躍。明治二十五年第二回、及び同二十七年第三回衆議院議員選挙において第三区(高岡・射水郡)から立候補し、稲垣示と相争うも敗れた。また二十三年の篤親小学校校舎新築に際し、多額の寄附を行い村民の教育の普及に尽力した。
<参考>『新湊市史 近現代』「第一章 明治となって」
(P20,P28,P35~37, P46~47)  別紙添付あり
 「政治データのブログ/第1~6回総選挙 富山3区」
平成29年10月30日アクセス

※3【河合神城】
(1830~78)文政13年6月砺波郡下山田村(現高岡市下山田)平民農、伝右衛門の三男に生まれる。名は平三。幼少より神童と称され7歳のときに加賀藩主13代前田斉泰(なりやす)の前で漢書の素読を行い非凡な才を称された床飾りの「獅子頭石」を拝領した。26歳の時に分家して一家を興し、農事の傍ら漢学塾「混放洞」開いた。門下生の主なる者には島田孝之、島巌、安念次左衛門、高畠孫次郎、武部尚(ひさ)志(ゆき)らがおり優れた逸材が輩出した。享年48。明治11年11月2日没。
<参考>『中田町誌』(539p、857p)、河合平三「先祖由諸一類附帳」明治3年

※4【野上文山】(のがみ ぶんざん)
1825~1873(文政8~明治6)儒者。豊後(ぶんご)国東郡櫛海(くしのみ)村(現大分県)の真宗覚応寺に生まれる。「文山野上君碑誌銘」によると,字(あざな)は豊水,野上は姓,文山は号とある。諸国遍歴の後高岡に来て,1872年(明治5)に同志と謀り高岡湶分(あわらぶん)(現高岡市湶町)に〈待賢室〉と呼ぶ学舎を開設した。翌年亡くなったため,待賢室はわずか2年で廃絶したが,門弟には異色の人材が輩出したという。教授内容は儒学・皇国史観に基づく国史やその他一般教養に及んでいる。享年49歳。
                (五十田至道『富山大百科事典』)
  

※5【稲垣示】(いながき しめす)
1849・10・6~1902・4・29(嘉永2・8・20~明治35)自由党系の自由民権政治家。射水郡棚田村(現射水市)(大門)に稲垣又平の長男として生まれる。幼名恒太郎。復太郎・忠雄・又平とも称し,のちに示を名乗る。号は虎岳(こがく)。少年時代は高岡の待賢室(たいけんしつ)で野上文山(ぶんざん)に,また金沢の明冶義塾に学ぶ。明治に入って新川県小学教員講習所,松任の石川県農業講習所にも学んだ。海内果(うみうちはたす)が指導していた小杉の〈相益社〉に入っていたが,思うところあって,1879年(明治12)土佐立志社の板垣退助に呼応。翌年高岡で政治結社〈北立社(ほくりつしゃ)〉を創立し,毎年5月15日に北陸親睦会を開く。この会は民権論者の結合を固め,〈北陸の自由は射水の森林より〉といわれた。81年10月,10年後に国会開設の詔(みことのり)が出ると直ちに板垣退助を中心に自由党が結党されると,翌年1月10,11日稲垣の北立社は北立自由党に発展,事務所を高岡坂下町(現高岡市大手町)に置く。会場の高岡瑞龍寺には老若・貧富を問わず300人余りが集まった。稲垣は主幹に推され,越中5郡最初の政党として発足する。この2年前,稲垣は県内各所で政談演説会を開く。前後4回開かれた大阪の愛国社大会には80年3月の第4回大会に出席。同年11月石川県越中国4079人の党員代表として議長に選ばれ,沢田平策・内藤欽二・島尾三郎らと上京。国会開設哀願表を太政大臣に提出し,却下にめげず6度も続ける。82年6月には石川県会議員に選ばれ,南兵吉とともに千坂高雅(ちさかたかまさ)県令への弾劾演説で解任を迫る。千坂は県会を解散して対抗。9月に再開したところで稲垣は千坂の私生活問題を攻撃し,一時職を退けられる。また板垣退助が襲撃された4月6日,凶報に驚いて金沢から岐阜へ2昼夜かけて見舞いに直行した。83年3月10日稲垣は越前の杉田定一,金沢の横地永太郎と協議し,瑞龍寺で北陸七州有志懇親会を開催。新潟・富山・石川・福井の北陸7州をはじめ,北は奥州,南は九州までの各県から約400人が集まる。10日後には越後の代表者らが拘引された高田事件も起きるが,この懇親会が契機となって各地で反政府運動が展開された。稲垣はこの時,富山に北鳴館を,高岡に共愛館を設け,言論を戦わせ文武ともに錬磨する道場とした。85年11月大井憲太郎らと朝鮮独立党を援助しようとして大阪事件を引き起こし,3年間入獄。89年2月11日帝国憲法発布の大赦で出獄すると,直ちに北陸政論社を興して『北陸政論』を刊行する。91年衆議院議員に当選以来,足尾銅山鉱毒事件の田中正造を助け,軍艦製造費疑獄を質(ただ)し,売薬廃税案を出すなど奮闘。自由党が立憲政友会になってからも富山県支部長として民権・自由のため戦ったが,同志牧野平五郎の応援演説中に没した。享年54歳。大阪事件で服役中に詠んだ短歌300首を収録した『狹衣集(さごろもしゅう)』(1890)のほかに『稲垣虎岳歌集』がある
                          (稲垣剛一『富山大百科事典』)

※6【木蘇岐山】(きそ きざん)
1857・3・22~1918・7・30(安政4・2・27~大正7)漢詩人。名は牧(まき)。字は自牧(じぼく)。岐山のほかに,三壼軒(さんこけん)主人,五千巻堂主人などの号もある。美濃国(現岐阜県)に生まれる。1892年(明治25)から1906年まで小杉・金沢・高岡に来寓(らいぐう)し,月三(がっさん)吟社(小杉)・湖海(こかい)吟社(富山)を創立,加越の漢詩壇を指導して多くの漢詩人を育てた。その遺稿集『五千巻堂集』(1935)には越中の人々との応酬詩(おうしゅうし)や越中の風土を詠んだ詩が多く載っている。享年62歳。
(大西紀夫『富山大百科事典』)

※7【『湘洲詩鈔』】(しょうしゅうししょう)
大正14年3月、婦負郡百塚村(いま富山市)の内山松世が編輯兼発行者となって東京で出版された。42丁から成り、烈々なる気迫が躍如としている。これは犬養毅が友人として「湘洲遺稿序」を巻頭に掲げている。
『島田孝之伝 偉大な先覚者』18pより抜粋

※1.4.5.6は<参考>富山大百科事典 電子版(平成29年11月22日アクセス)



『富山県史』通史編 Ⅴ 近代 上 昭和56年3月31日発行 編集・発行 富山県
『中田町誌』昭和43年5月25日発行 中田町誌編纂委員会
『島田孝之とその生涯』 昭和45年11月3日発行 発行者 島田孝之先生顕彰会
『新湊市史』平成4年3月25日発行 編者 新湊市史編さん委員会 発行者 新湊市
『湘洲詩鈔』大正14年3月5日発行 編輯兼発行者 内山 松世
『顕彰紀要』昭和43年11月 島田孝之先生顕彰会
『島田孝之伝 偉大な先覚者』1968年 中田文化会
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