七絶「高岡寓中遊古城」 しちぜつ たかおかぐうちゅうこじょうにあそぶ

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 / 江戸 / 富山県 

頼 鴨涯 (1825~59)
らい おうがい
富山県高岡市
安政5年春/1858
紙本・軸装・墨書
(本紙)132.0㎝×27.9㎝、(全体)201.4×41.7、(軸長)47.2
1
富山県高岡市古城1-5
付属品:木箱(頼潔極箱。蓋表「三樹先生遊高岡古城詩立幅」、蓋裏「筆致古雋猶有褚氏之風骨三樹先生真跡無疑/因題表時戊午之春日也  頼潔(白文方印「頼潔」、朱文方印「士誠」)」、箱妻「頼三樹/古城之詩」
高岡市(高岡市立博物館保管)

 儒学者・頼 山陽の三男で勤王の志士・頼 鴨涯(1825~59/三樹三郎/(1))が高岡城跡(古城)について詠んだ漢詩書である。酒豪として有名な鴨涯は「酒徒」と署名している。
 頼 潔(1860~1929/きよし/鴨涯の兄支峰の養子)の箱書きによると、「戊午之春日」、即ち安政5年(1858)の春に清書されたものと思われる。
 鴨涯は蝦夷地(北海道)よりの帰途、日本海側を南下し、嘉永元年(1848)10月20日(2)より、高岡片原町の医者で同志の山本道斎(1814~55)(3)の家(書斎は「牛馬堂」という)に滞在し、旧知の逸見文九郎(1825~75/舫斎/道斎の妹婿)をはじめ高岡の有志(4)と時局を論じ、作詩する酒宴を重ねた(鴨涯は滞在中『牛馬堂記』を著す)。

 鴨涯は高岡に7ヶ月、又は1ヶ月半(5)滞在した後の12月5日頃、高岡を旅立った。道斎・津田半村(酒造業。漢詩人。高峰譲吉祖父)らは名残り惜しみながら北陸街道を同道し、現高岡市上北島(片原町の山本家から約3.5km)で別れたという。ここには「勤王志士惜別之処」碑が昭和9年(1934)12月20日、高岡市の郷土史家・飛見丈繁により建てられた(6)

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【釈文】
(白文方印「鴨涯」)
万林松翠雨余清着履黄昏上古城鳧
鴨帰栖池水空残霞一片乍分明
  高岡寓中遊古城 鴨涯酒徒(白文方印「頼惟醇印」、朱文方印「子春」)

【読みくだし】
万林松翠(ばんりんしょうすい)、雨余(うよ)(さや)かなり
(くつ)(つ)け、黄昏(たそがれ)古城に上る
鳧鴨(ふおう)(す)に帰り、池水空し
残霞一片(ざんかいっぺん)分れながらも明らかなり

【現代語訳】
鬱蒼とした緑の松林、雨後は清らかですがすがしい。靴を履き、黄昏時に古城に上った。
鴨は巣に帰り、堀の水は空しい。夕焼けの名残りははっきりとして明るい。

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【注】
1.頼 三樹三郎(鴨涯) らい みきさぶろう(1825.5.26~1859.10.7)
 幕末の儒学者、尊攘派の志士。幼名は造酒八、名は醇(じゅん)、号は鴨厓(鴨崖・鴨涯(いずれも「おうがい」)・古狂生・百城、字は子春(士春)・子厚、通称は三樹・三樹八郎・三木八など。文政8年5月26日、頼山陽の三男として京都三本木に生まれる。16歳のとき大坂の後藤松陰に師事、かたわら篠崎小竹に学ぶ。1843年、羽倉簡堂に伴われて江戸に行き昌平坂学問所に学ぶ。上野不忍池の弁天堂(将軍家菩提寺の寛永寺境内)の石灯を倒したかどで46年退寮を命じられたといわれる。同年、蝦夷地・東北漫遊の旅に出、49年帰京。家塾を守るかたわら梁川星巌らの尊攘の士と交わり、58年水戸藩への攘夷勅諚降下を運動、大獄が起こると9月に連座して捕らえられ、翌年江戸評定所で訊問ののち、10月7日国家重大の政事向きを論じ天下を擾乱させたとして死罪となった。大橋訥庵が回向院(東京都荒川区)に遺骸を葬り、62年死罪御免となってのち松陰神社(世田谷区)境内に改葬された。[頼 祺一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)等

2.飛見丈繁編『越中の聖蹟と越中に来た先哲の迹』(昭和20年、私家版)p181による。しかし、逸見文綱編『逸見舫斎伝』(大正13年、私家版)p9に「九月二十三日夜同頼鴨涯飲牛馬堂」と題する詩が掲載されており、鴨涯の到着日は判然としない。通説の7ヶ月滞在説を採るなら(飛見前掲書の「十二月五日頃高岡を発し」たとして)、5月頃に高岡に到着したことになる。
3.山本道斎 やまもとどうさい(1814.5.2~1855.12.20)
 高岡片原町の医者、勤王の志士。祖父道仙は加賀藩医であったが、寛政3年(1791)に退職して高岡町医となる。父一覚(檉園)の長男。道斎、名は奎、字は仲章、幼名は鼎吉、号は道斎の他に翠渓。幼時に叔父で藩医・内藤玄鑑の養子となり、藩校明倫堂で学ぶ。13歳の時、藩主前田斉泰に詩経を講義するなど、俊英の誉れ高かった(あだ名は「人智嚢(知恵袋の意)」)。しかし、藩に仕えるのを嫌い、17歳で江戸に遊学する(弟の宗春が内藤家を継ぐ)。昌平黌で儒学を学び、次いで京の蘭医・小石元瑞に医学を、頼山陽に歴史・詩文を学び、勤王の志を深める。その際、山陽三男の鴨涯と親交を深めた。更に長崎のシーボルトに西洋医学や海外事情を学ぶ、と伝えられているがシーボルト事件(1828年)の後のことであり、おそらく誤りであろう。31歳の時、父亡き後、苦境にあえぐ郷里にやむなく帰る。医業のかたわら、鴨涯・藤本鉄石ら尊攘家と交わりながら、逸見文九郎らに勤王思想を広める。道斎の書斎「牛馬堂」では毎夜のように詩酒の集いが開かれた。それが祟ったか、42歳で急逝した。墓は向かいの妙国寺にあったが荒れ果てていたので、昭和4年、飛見丈繁が建て直した。さらに翌年、飛見は墓の前に「勤王志士山本道斎先生追慕碑」も建てた(墓共に二水大橋弘撰書)。道斎の著書『静思録』や、鴨涯をはじめ全国の志士との往復書簡があったが、鴨涯が安政の大獄で捕縛されると、道斎は山中に隠れる。幕府の捜索を恐れた家人がそれらを慌てて焼いてしまったので、その思想の詳細をうかがうことはできない。
(参考)講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus。『高岡史料』上巻、明治42年、高岡市。『高岡市史』中巻、昭和38年、高岡市役所。飛見丈繁『越中の聖蹟と越中に来た先哲の迹』昭和20年、私家版。同『高岡に在る墓碑』昭和30年、私家版。『高岡知名録』平成8年復刻版(昭和5年初版)、高岡文化会(高岡市立中央図書館復刻)。津島北渓著・篠島 満訳『高岡詩話(現代語訳)』平成17年、高岡市立中央図書館。逸見文綱『逸見舫斎伝』大正13年、私家版。

4.津田半村、閑雲(瑞龍寺18世)、津島北渓(医者・儒学者)、寺崎山窩、逸見文九郎らをはじめ、道斎の帰郷後、彼を漢詩壇の盟主と仰ぐ津島東亭・土肥知言(医者)・長崎浩斎(蘭方医・漢詩人。林忠正祖父)・笹原北湖(儒学者)など。特に逸見文九郎は鴨涯を慕うこと強く、その死の翌年(1861年)上洛し、頼支峰(鴨涯の次兄)らと鴨涯追慕の宴を開き、詩を詠んだ。また明治2年、東京の鴨涯の墓に参り、手づから埃を払い、花を供え、涙が止まらず、去るに忍び難かったという。
(参考)『高岡市史』中巻、『逸見舫斎伝』。

5.『高岡史料』、『逸見舫斎伝』、『高岡知名録』など多くの文献には7ヶ月滞在したとある。しかし、『高岡市史』中巻がそれに疑問を呈し、飛見丈繁『越中の聖蹟と越中に来た先哲の迹』p180-181には、「嘉永元年」の「十月二十日(中略)高岡に至った。」「十二月五日頃高岡を発して金沢に赴いた。」とあり、1ヶ月半滞在説を挙げている。

6.飛見『越中の聖蹟と・・・』、『富山県歴史の道調査報告書 -北陸街道-』昭和57年、富山県教育委員会編、富山県郷土史会発行。

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