絹本著色湯女図〈土田麦僊筆/二曲屏風〉
けんぽんちゃくしょくゆなず
概要
大正七年(一九一八)一月二十日、京都において、微温的な文展の審査内容に飽きたらない若き土田麦僊は、同じ京都市立絵画専門学校の卒業生で志を同じくする村上華岳・榊原紫峰・小野竹喬・野長瀬晩花らと国画創作協会を結成した。同年十一月に同会第一回展を東京・白木屋呉服店で開催し、以後、断続的ではあるが昭和三年までに七回の展覧会を東京と京都で開催した。同展は会員のほかに公募も行い、京都を中心とする若い芸術家たちに大きな影響を与えた。東京を中心とする再興日本美術院展と並んで、同時代におけるきわめて質の高い日本画運動として評価が高い。今年は国画創作協会の重要性に鑑み、同会を代表する麦僊・華岳の作品のうち、第一回展に出品された麦僊作「湯女」と、第二回展出品の華岳作「日高河清姫図」が重要文化財に指定された。
土田麦僊(一八八七-一九三六年)は明治三十七年(一九〇四)竹内栖鳳に師事し、明治四十四年(一九一一)京都絵画専門学校を卒業している。明治四十三年にはパリから帰国して評論活動をしていた田中喜作を中心に結成された京都の新進画家たちの懇談会「黒猫会(シャ・ノワール)」、さらにこれを改組した「仮面会(ル・マスク)」に参加し、後期印象派等西洋画の知見を広めた。早く新古美術展(明治三十八年)や文展(同四十一年)に出品し受賞も重ねているが、特に文展に出品した「島の女」(大正元年)や「海女」(同二年)は、ゴーギャンの影響のもと大胆な個性の表出をめざしている。
国画創作協会結成後、麦僊は第一回展から毎年意欲的な大作を発表し、同協会の発展の原動力となった。大正十年(一九二一)には竹喬・晩花とともに洋行して西洋美術を見学し、イタリア・ルネサンスのフレスコ画に日本画との共通性を認めたりもしており、東西美術の融合をめざす意欲を強めたが、帰国後の「舞妓林泉図」(大正十三年)や「大原女」(昭和二年)はその成果といえる。
麦僊の代表作は「湯女」「舞妓林泉図」「大原女」などであるが、「舞妓林泉図」「大原女」がやまと絵の装飾的効果を特徴とする構図法とは異なった、西欧的な幾何学的構図法・構成美を取り入れようという工夫に意が用いられているのに対して、「湯女」はやまと絵風の装飾性の強い画面構成の中で、近代的な感覚に裏づけられた女性美を追求した作品であり、いかにも大正時代らしい浪漫的な気分に満ちている。「湯女」という江戸時代風俗画以来の題材を扱いながら、湯屋における群衆を表すのではなく、むしろ豊かな緑の中に一人の横たわる女性を表した構図には、自然の中に置かれた女性という西洋画の主題により近いものがあり、さらには湯女の表現の中に麦僊が感銘を受けていたルノワールの反映を認めることもできよう。西洋画の直模ではない日本画の近代画に取り組んだ、麦僊前期の代表作である。