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百済寺跡

くだらでらあと

概要

百済寺跡

くだらでらあと

社寺跡又は旧境内 / 近畿 / 大阪府

大阪府

枚方市中宮西之町

指定年月日:19410127
管理団体名:枚方市(昭40・10・7)

史跡名勝天然記念物

字宮山ノ臺地ニ存シ南正面ニ南大門阯アリ其ノ北ニ中門阯、金堂阯、講堂阯アリテ南北中軸線上ニ並ビ金堂阯ノ斜前方ニ二基ノ塔阯東西相對シテ存シ廻廊阯ハ中門阯ノ兩側面ヨリ左右ニ延ビテ東西ニ向ヒ北折シテ塔阯ノ外側ヲ過ギテ北ニ進メリ
南大門阯ハ土壇ノ高サ約一尺ニシテ四個ノ礎石殘存シ中門阯ハ三個ノ礎石及九箇所ニ柱礎下栗石群アリ孰レモ三間ニ二間ノ樓門タリシコトヲ示セリ 塔阯ハ其ノ心礎ノ位置中門阯ノ眞柱筋ヨリ直北約五十九尺ノ線上ニアリテ夫々中軸線ヨリ約百四十一尺離レテ存シ共ニ土壇ヲトドメ基壇周圍ニハ地覆石ヨク殘レリ東塔阯ハ現在二個ノ四天柱礎ト三個ノ側柱礎トヲ有シ方三間ニシテ一邊十七尺九寸ト推定セラル 礎石ハ孰レモ表面ニ徑約二尺ノ圓形造出シヲ設ケ更ニ徑一尺八九寸ノ圓柱座ヲ施シ中央ニ高サ二寸乃至三寸ノ■ヲ突出セリ 西塔阯ハ心礎及四天柱礎二個、側柱礎七個ヲ有シ心礎ハ略圓形ニシテ表面ニ徑二尺九寸二分ノ圓形造出シヲ設ケ更ニ徑二尺六寸四分ノ柱座ヲ施シ其ノ中央ニ高サ二寸徑一尺ニ近キ■ヲ突出セリ 金堂阯ハ兩塔阯ノ中心線上ヨリ約六十五尺離レテ存シ高サ約二尺五寸ノ土壇ヲ有シ土壇周圍ニ專列繞リ五個ノ礎石及十六個所ノ柱礎下栗石群アリ是等ニ依ツテ七間ニ四間ノ堂宇タリシコト推察セラル 講堂阯ハ柱礎下栗石群存シテ其ノ位置推定セラルルモ規模明カナラズ廻廊阯ハ單廊ニシテ礎石ハ西廻廊阯最モヨク殘リ内側列十二個、外側列十個、都合二十二個ノ礎石殘存セリ尚寺阯ノ地域内ヨリ奈良時代末期平安時代初期ノ様式ヲ示ス遺瓦多量ニ出土シ又古錢、鍍金飾金具、塔露盤覆鉢片等ヲ出ダセリ 此ノ如ク堂塔ノ遺阯明暸ニシテ廻廊阯モ殘存シ殊ニ其ノ伽藍配置ガ所謂藥師寺式ヲナス點ニ於テ類少キモノナリ續日本紀ニ桓武天皇交野ニ行幸シテ遊獵シ給ヒシ時百濟王等ニ位ヲ授ケ百濟寺ニ近江播磨二國ノ正税各五千束ヲ施ストアリ 此ノ地附近ハ古ノ交野ノ地ニ屬シテ皇室ノ御遊獵地タリ 且百濟王氏ノ居住ニ關係アル地ナルヲ考フレバ本寺阯ヲ以テ百濟寺ニ推定スルコトヲ得ベシ 河内志ニモ此ノ寺阯ヲ百濟廢寺ト記セリ
字宮山の台地に存し、南正面に南大門跡がありその北に中門跡、金堂跡、講堂跡があって、南北中軸線上に並び、金堂跡の斜前方に二基の塔跡が東西相対して存し、廻廊跡は中門跡の両側面より左右に延びて東西に向い北折して塔跡の外側を過ぎて北に進んでいる。南大門跡は土壇の高さ約1尺で4個の礎石が残存し中門跡は3個の礎石及び9箇所に柱礎下栗石群があり、いずれも3間に2間の楼門であったことを示している。塔跡はその心礎の位置は中門跡の直柱跡から直北約59尺の線上にあってそれぞれ中軸線より約141尺離れて存し共に土壇をとどめ基壇周囲には地覆石がよく残っている。
東塔跡は現在2個の四天柱礎と3個の側柱礎とを有し方3間で一辺17尺9寸と推定せられ西塔跡も亦心礎及び四天柱礎2個、側柱礎7個を有する。金堂跡は両塔跡の中心線上より約65尺離れて存し高さ約2尺5寸の土壇を有し土壇周囲に墫列繞り5個の礎石及び16個所の柱礎下栗石群があり、是等に依って7間に4間の堂宇のあったことが推察せられる。廻廊跡は單廊で礎石は西廻廊跡が最もよく残っている。なお寺跡の地域内より奈良時代末期平安時代初期の様式を示す遺瓦が多量に出土し、又渡金飾金具、塔露盤覆鉢片等が出土している。このように堂塔の遺跡が明瞭で廻廊跡も残存し殊に其の伽藍配置が所謂薬師寺式をなす点において類例少く学術上特に価値が深い。

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