中山荘園古墳
なかやまそうえんこふん
概要
中山荘園古墳は,7世紀中頃に築造されたと推定される,いわゆる「終末期古墳」である。宝塚市北方の長尾山丘陵の南斜面に所在し,当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘をもち,切石ではないが横口式石櫛に近い形態・規模の石室を有している。昭和57年にマンションの建設にともない発見され,宝塚市教育委員会による昭和58・59年の発掘調査の結果,八角墳であることが判明した。発掘調査により八角形の墳丘全容が明確となった最初の事例であり,事業計画を変更し,事業地内にあたる墳丘東半分について保存を図ることができた。しかし,土地所有者の異なる西半分については,宝塚市の買収要望に対する同意がえられず,発見から15年が経過したが,今回,所有者の理解がえられ, 一体としての保護・活用が可能になったものである。
古墳は丘陵裾部から18mほど上がった中腹に立地し,両側に緩い稜線が入るわずかな谷地形を謹んでいる。墳丘は石室の主軸に稜角をおくように八角形に割り付けているが,石室開口部側の二辺分については,方形壇としている。墳丘規模は,八角の対角長で約13mである。墳丘裾部には,原則として各辺2列の列石がめぐる。墳裾の基底部は北から南にかなり傾斜しており,墳丘背面の北側と前面の方形壇裾では約4mの高低差がある。
ほぼ真南に開口する横穴式石室は,長さ3.5mで嘩・高さとも1.3mの女室に,長さ1.2mで幅0.7mの羨道を取り付けたものである。羨道南端の開口部分から東西両側にのびる外護列石が認められる。奥壁は1牧石でやや内債するように立て,側壁は4〜5段に積み上げている。 天井石は玄室部分の3石が残る。石材は切石ではなく,花崗岩及び結晶質凝灰岩の自然石である。床面には石敷があり,長さ2.3mで幅1.Omの範囲に赤色顔料が認められ,木棺の痕跡と考えられる。出土遺物はわずかで,須恵器・土師器片と鉄釘1本のみである。
6世紀末から7世紀初頭,前方後円墳が築造されなくなり,首長層の墳墓はかなり数が少なくなるが,天皇陵をはじめ,その多くは方墳であった。ところが、7世紀中頃の舒明陵を最初として、天皇陵は八角墳になると考えられている。確実な八角墳の天皇陵としては,ほかに天智陵と天武・持統合葬陵があり,また斉明陵との説がある牽牛子塚古墳,文武陵との説がある中尾山古墳も,部分的な調査により八角填であると推定されている。各地に築かれた数少ない首長墳の多くが方墳であるなかで,天皇陵と同じ八角形を示すものはきわめて少ない。その被葬者像を具体的に明らかにすることは困難であるが,7世紀代に首長墳を築いた被葬者層の中でも,さらに特別な存在であったことが予想される。中山荘園古墳は,天皇陵以外の数少ない八角墳のなかでも,全体像が明確で達存状況も良好であり,飛鳥時代の墓制を考える上で欠くことのできない存在である。よって,史跡に指定し保存を図ろうとするものである。