武蔵府中熊野神社古墳
むさしふちゅうくまのじんじゃこふん
概要
武蔵府中熊野神社古墳は、7世紀中頃から後半の上円下方墳である。東京湾西岸に注ぐ多摩川が形成する立川段丘崖から500mほど段丘内に入ったところにあり、南東500mには古墳時代後期の群集墳である高倉古墳群が所在するものの、単独で所在する古墳である。また、東約1.2kmに古代東山道武蔵路、東南東約2kmに武蔵国府の国庁推定地、北北東約2.7kmに史跡武蔵国分寺跡が位置する。
明治期の『武蔵野叢誌』19号によれば明治17年に開口したことが知られるが、府中市教育委員会の発掘調査により平成2年に墳丘の一部で版築状の盛土が確認され、平成15年から16年の内容確認のための発掘調査により、下部2段が方形、上部1段が円形の上円下方墳であることが明らかになった。
最下部の1段目は一辺約32m、高さ約0.3mで切石を外周に並べる。2段目は一辺約23m、高さ約2.5m、3段目は直径約16m、高さ2.2mで、2段目及び3段目には河原石による葺石を施す。墳丘盛土は版築によって積み上げられる。
内部主体は凝灰岩質砂岩を用いた切石積みの横穴式石室である。石室は南からハの字に開く前庭部、羨道、胴張り気味の前室と後室、胴張りの玄室へとつながり、内側にせり出す門柱状の石材によって各々が区切られる。羨道は長さ約0.9m、幅約1.6m、前室は長さ、最大幅、高さともに約1.8m、後室は長さと最大幅が約1.9m、高さ約1.8m、玄室は長さ約2.6m、最大幅約2.7mで、石室全長は約8.8mである。また、墳丘の南と東で部分的に周堀の可能性がある溝が確認されている。
石室床面直下で東西幅約8m、南北幅13m以上、深さ1.5m以上の掘込地業が確認された。東西幅はおおよそ石室の範囲に限定され、石室を安定させる基礎と推定される。類例はほかになく、極めて特異な構築方法をとっていたことになる。
盗掘されているものの、石室内より鉄地銀象嵌鞘尻金具1点、ガラス小玉6点、刀子3点、鉄釘約300点が出土した。このうち、鞘尻金具の象嵌文様は七曜文を7箇所に配した国内外に類例を見ないものである。古墳の築造時期は横穴式石室や鞘尻金具の特徴から、7世紀中頃から後半と考えられる。
武蔵府中熊野神社古墳は、発掘調査で確認された上円下方墳としては、京都府と奈良県にまたがる史跡石のカラト古墳、静岡県清水柳北1号墳に次いで3例目となる。石のカラト古墳は7世紀末の築造で一辺が13.8m、清水柳北1号墳は8世紀初頭の築造で一辺が12.7mであることから、本古墳は3例中最も大きく、かつ古くなる可能性が高い。また、本古墳は7世紀中頃から後半の武蔵においては最大級の墳丘をもち、内部主体も大型の石室であるため、この時期の武蔵を代表する首長墓と位置づけることができる。本古墳の近辺では、これと相前後して東山道武蔵路が敷設され、直後の8世紀前半には武蔵国府が設置されており、当時の武蔵国の動向をうかがう上でも貴重である。