津屋崎古墳群
つやざきこふんぐん
概要
福岡県北部の玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7km、東西2kmの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。古墳は全体で56基残存しており、内訳は前方後円墳16基、円墳39基、方墳1基である。
勝浦高原古墳群は、1基の前方後円墳と12基の円墳からなり、一番西側の丘陵先端部に位置する前方後円墳の11号墳は6世紀後半の築造で、墳長は49mである。
勝浦古墳群のうち、勝浦峯ノ畑古墳は、墳長約97mの5世紀中頃の前方後円墳で、埴輪、葺石を有し、後円部で横穴式石室を検出した。石室を3等分する位置に石柱を立てているのが特徴である。石室から鏡、大刀、剣、短甲のほか、銅釧、ガラス玉、琥珀製棗玉、琥珀製勾玉等の装身具が出土した。
新原・奴山古墳群は最も密集度の高い古墳群で、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである。総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する。21号墳は新原・奴山古墳群の中で最も早い5世紀前半の直径17mの円墳で、22号墳は前方部が削平されているが、推定墳長約80mの前方後円墳である。
生家古墳群に属する生家大塚古墳は、前方部は削平が著しいが、墳長約73mの前方後円墳に復元できる。出土した埴輪等から5世紀後半に位置付けられる。
大石岡ノ谷古墳群は、前方後円墳2基と円墳1基からなる。いずれも6世紀後半のものである。
須多田古墳群は、前方後円墳4基と円墳1基からなる。須多田ニタ塚古墳は直径33.5mの5世紀中頃の円墳で、周囲に幅4mの周溝と馬蹄状形の溝がめぐる。主体部は石材に赤色顔料を塗布した横穴式石室である。須多田ミソ塚古墳は、推定墳長67mの6世紀前半の前方後円墳である。須多田下ノ口古墳は推定墳長83mの前方後円墳で、6世紀後半に位置付けられる。
在自剣塚古墳は、墳長101.7mの津屋崎古墳群最大の前方後円墳である。前方部、後円部はともに2段築成で、葺石を有する。6世紀後半に位置付けられる。
宮地嶽古墳は、宮地岳の南斜面に位置する円墳で、直径35mと推定される。主体部は、無袖の横穴式石室の奥に横口式石槨を設ける特異な形式である。石室長は22mを測る長大なもので、石室奥から約3mの位置で、両側の壁石に龕のような掘り込みを設けている。石室の形態や出土した須恵器から、7世紀前半に位置付けられる。昭和9年(1934)に古墳前面で社務所を建設した際に、金銅製頭椎大刀、金銅製鏡板、金銅製杏葉、金銅製鞍金具、金銅製壺鐙、蓋付銅椀、銅盤、ガラス板、ガラス丸玉等の遺物を発見した。これらは古墳の副葬品を再埋納したと考えられるもので、国宝に指定されている。
このように、津屋崎古墳群は玄界灘に面した宗像地域における5世紀前半から7世紀前半にかけて連綿と築かれた首長墓群として位置付けることができる。地理的位置を考え合わせると、海上交通を担い、沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群であるという可能性が高い。なかでも、宮地嶽古墳は天武天皇妃尼子娘の父親である「胸形君徳善」を被葬者とする説が有力である。よって、北部九州西北岸における代表的な首長墓群である津屋崎古墳群56基のうち40基を史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。