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跡部の踊念仏

あとべのおどりねんぶつ

概要

跡部の踊念仏

あとべのおどりねんぶつ

無形民俗文化財 / 中部

選定年月日:19861217
保護団体名:跡部踊り念仏保存会

記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財

 跡部の踊り念仏は、太鼓を中心に据えて、そのまわりを、踊り手が念仏を唱えたり、鉦【かね】を打ち鳴らしながら輪になって踊るものである。鎌倉時代に、諸国をまわって念仏を広めた時宗【じしゅう】の開祖【かいそ】の一遍上人【いっぺんしょうにん】が、弘安二年(一二七九)に、現在の長野県佐久市を訪れ、念仏供養を行ったところ、人びとが念仏を唱えながら自然に踊りだした。これが跡部の踊り念仏の始まりであると伝えられる。この踊り念仏は、念仏を唱え鉦や太鼓をひたすらたたき、集団で踊るうちに、無我の境地にはいるというもので、当時の人びとに広く受け入れられ、その後も佐久周辺で踊り念仏が行われた。なお当時、跡部村に市が立ち、その広場が踊りの場となったため、後も跡部村が踊り念仏の中心になっていったと考えられている。天保十一年(一八四〇)の記録には、跡部の踊り念仏に遠近百か村から参加があったことが記されている。
 跡部の踊り念仏は、以前は地元の西方寺【さいほうじ】境内にある観音堂の縁日である四月十七日に行われ、後に三月中旬の日曜日になったり、あるいは春の彼岸に近い日曜日となったりしたが、現在は四月の第一日曜日に、同寺の本堂で行われている。
 一連の行事は、西方寺本堂に、二間(約四メートル)四方のドウジョウ(道場)と呼ばれる場所を組み立てることから始まる。この道場は周囲に板塔婆【いたとうば】を立てた垣を巡らして布で屋根のように覆い、四方には発心【ほっしん】、修行【しゅぎょう】、菩提【ぼだい】、涅槃【ねはん】と呼ばれる鳥居【とりい】型の門を設け、四隅の柱に光明遍照などと記された青・赤・白・黒の旗を飾りつけたもので、地元では土葬の折に棺を覆った天蓋【てんがい】が原形といわれている。
 跡部の踊り念仏は、太鼓の打ちだしに始まり、「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えるヒラネンブツ(平念仏)へと続き、その後太鼓と鉦に合わせた踊りとなる。ドウジョウの中央に数珠【じゅず】をかけた二基の太鼓が置かれ、八人一組の踊り手数組が入れ替わりにドウジョウに入り太鼓のまわりを念仏を唱えたり、踊りながら左回りにめぐる。踊り手八人のうち最初の二人はサンシキと呼ばれる音頭取りであり、続く六人は胸前に鉦をつり下げ撞木【しゅもく】を手にしている。
 踊り手ははじめ、ドウジョウに向かって目を閉じて座っており、太鼓が打ち鳴らされるとそれを合図に一人ずつ立ち上がり、撞木を手に持ち合掌する。そのまま撞木を持った手を掲げてドウジョウに入る。踊り手八人がドウジョウに入り終えたところで「南無阿弥陀仏」を唱えるヒラネンブツとなる。太鼓の合図に合わせて全員が念仏を唱えながら左回りにめぐる。ヒラネンブツが終わるとまた太鼓が打ちだされ、踊り手は鉦を打ち始め、太鼓と鉦にあわせて跳ねるようにして踊りだす。次第に太鼓と鉦のテンポが速まり、それに合わせて踊りも激しさを増し、踊り手は身体を前後に屈曲しながら左右、前後に飛び跳ね踊る。ひとしきり踊った後、踊りは次第に平静さを取り戻し、踊り手は入場するときと同じ所作をしながら順次ドウジョウを出て元の座に戻る。
 このように跡部の踊り念仏は、踊り手が踊りながら法悦の境地に至るという踊り念仏の本来の姿をうかがわせるもので、芸能の変遷の過程を示し、地域的特色も顕著である。

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キーワード

念仏 / 踊る / 太鼓 /

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