松前氏城跡
福山城跡
館城跡
まつまえししろあと
ふくやまじょうあと
たてじょうあと
概要
H6-6-33館城跡.txt: 慶長4年(1599)、蠣崎慶広は氏を松前氏に改姓するが、その彼が慶長5年(1600)に築城に着手し、慶長11年(1606)に完成した城が福山城である。
松前藩はこれを正式には福山館ないし福山陣屋と呼称していたが、領民とアイヌに対しては城と称した。以後蝦夷地が幕府直轄地となって、松前氏が梁川に転封されていた一時期、すなわち文化4年から文政4年(1807〜21)までの14年間を除いては、福山城は松前氏代々の居城であった。嘉永2年(1849)幕命を受けた松前崇広は翌3年に旧城を壊して福山城の築城を開始し、安政元年(1854)に完成した。この城が今日にみる福山城であり、その遺構が昭和10年に指定されている。
ただし福山城の立地は必ずしも戦略上も経済上も有効なものではなく、築城以来函館、石狩等への移転が計画されることがままあった。また安政2年(1855)東西蝦夷地の上知によって、所領が狭小となったこともあり、[[厚沢部]あつさぶ]川流域・天の川流域を造田・開発する計画があった。慶応4年(1868)7月(以下旧暦)、この造田計画を推進していた若手家臣の下国東七郎が、クーデターにより執政となり、厚沢部川流域の[[館]たて]への移城が決定された。藩主徳広の同意を得た上で9月(明治に改元)に箱館府に、11月に太政官に築城願が提出されている。太政官の許可がおりるのは11月11日であるが幕府脱走軍の動向による軍事的緊張もあり、事実は九月に着工、10月には完成をみ、明治元年11月3日藩主徳広は館城に入城した。このため以後「館藩」とよばれるようになる。
しかるに11月10日幕府脱走軍松岡四郎次郎隊は館城攻略のため五稜郭を出陣、11月15日には彼らの攻撃によって館城は陥落している。この時三上起順、今井興之丞ら多数が戦死している。
城跡は厚沢部川と支流糠野川にかこまれた標高50メートルの台地上にある。その構えは城郭というよりは陣屋に近く、南方と東方の一部に土塁(東西約200メートル)とほり、また中心部に井戸跡や炭化米が散布する蔵跡などの建物跡が残っている。南方のほりを百間堀とよんでいるが、これが4周めぐっていることは、絵図(藤枝家文書、前川文書など)から知られていた。ただし昭和63年から、平成2年にかけて厚沢部町教育委員会および十勝考古学研究所によって行われた発掘調査の結果、東西北のほりは絵図とは若干異なって、それぞれ[[矩折]かねおり]をもっていることが確認できた。また、多くの建物跡、柵木基部木材等も検出されているし、多数の陶磁器(肥前系染付など)のほか遺物も出土している。
館城南の山を丸山とよぶが、館城攻防をめぐる戦場であり、250か所を数える散兵壕の跡が残り、激戦であった様子を伝えている。
館藩の呼称が示すように、館城は松前氏の最後の城である。また箱館戦争の主戦場の一つであったことにも重要な歴史的意義がある。さらに加えれば、明治になって作られた藩の城としても特異な意義があろう。館城の存在を抜きにしては、北海道における幕末、維新期の情勢や松前氏の歴史は語れないともいえよう。
したがってここにその歴史的重要性を考え、既指定の福山城に館城跡を追加指定して、両者を松前氏城跡とするとともに、福山城の呼称を他の城の史跡指定名称にならって福山城跡と変更したい。