總光寺庭園
そうこうじていえん
概要
松山町は、日本海沿岸の酒田市街から東南東へ最上川沿いに約一二キロメートル、江戸時代庄内藩の本拠鶴岡市街から北北東へ約一七キロメートルの山稜西麓に位置する。
江戸時代、庄内藩主酒井家の松山支藩の城下町として栄えことが、今も町の中心の公園や学校敷地などにうかがうことができる。
曹洞宗禅宗寺院である洞瀧山總光寺は、町の東部山裾に正面を西に向けて境内を構えている。参道両脇には県指定天然記念物の「きのこ杉」が並ぶ。江戸時代を通じての歴代住職の手入れによりきのこ型の樹冠をもち、独得の景観を呈している。文化八年(一八一一)再建の山門を入ると正面に本堂(瑠璃光殿)および右手に本堂と曲折れに接する庫裏を見る。いずれも宝暦十一年(一七六一)の再建である。庭園は、本堂・庫裏の裏側に位置する。
總光寺は、至徳元年(一三八四)、陸奥国胆沢郡報恩山永徳寺の高僧月庵良圓禅師により峰の頂に薬師仏一体を祀り開山としたと寺史が伝えている。以後、戦乱等により被災・再建の歴史が続いてきたが、江戸時代には庄内松山支藩酒井家の加護を受け、安定した一山経営が続けられてきた。現在の寺観は、庭園を含めて宝暦六年(一七五六)の被災後の再建を基にしている。
庭園は、庫裏の書院の間からの座観を基本とした築山林泉庭である。書院の間からの真東を望めば、左手上方に最上段の滝石組が水を落としており、中央の築山脇を流れで過ぎて池に注いでいる。池中には、書院の間正面に平坦な中島を設けており、池水を南西隅の池尻から庫裏脇に落としている。最上段の滝石組は、高さ約一・五メートル、幅一メートル強の板石を用い、滝下で一段を経て流れはくの字に屈曲しながら小さく一段二段を落ち、そこから石で畳んだ流れとなって中間の小さな滝石組に続く。ここから池までは平坦に低く構えた二段の落としで池に注ぐ。書院の間から庭園に下りれば、池の平坦な護岸石から五つの臼石の澤飛を経て中島に渡れる。中島の北端と南端にはやや大振りの石を据えており亀島風のしつらえを思わせる。中島と池の東岸はごく接しており一石の橋で結ぶ。対岸に渡ってからは、斜め上方に疎らに飛石を打ち、左手に見える築山の奥のやや広がりをもつ草地へと続く。廻遊路でもある。飛石の右手には緩やかな築山が設けられており、七か所ばかりに景石を配している。廻遊路は草地を経て、滝石組からの流れの中間を石橋で続き、小振りの自然石灯篭と桜の老木の脇を通り、開山塔への小道に合する。
この庭園の特色の一つは、左手上方からの滝石組と流れ、中央の岩組による豪放な築山、右手の柔和な築山、護岸を低く押さえた池と中島の巧妙な組み合わせである。江戸時代後期に完成する日本庭園の典型を示すとともに、華美に流れずいかにも禅宗寺院の庭園としての風格を表していて見事である。
もう一つの特色は、庭園正面遠方、山頂の峰の薬師堂を庭景に取り込んでいることである。現在は庭園上部の樅、松の老大木の間に薬師堂を望むことができる。山林中の広葉樹の紅葉とともに一幅の絵として庭園美を引き立てている。
庭園の左手から小道が始まり、松の多い尾根筋を上がりきると開山塔がある。享保十七年(一七三二)建立の「總光開山月庵圓老和尚塔銘」とある高さ約二メートルの石塔である。開山塔から少し屋根を上がって後平坦な道を行くと中の薬師堂に至る。ここからは急坂の道が広葉樹林の間を巡り山頂の峰の薬師堂で終わる。庭園から比高差一五〇メートルばかりの行程である。
峰の薬師堂前に立つと、北方に鳥海山、南方に月山、西方眼下に最上川、庄内平野、日本海の素晴らしい風景を一気に眺望することができる。
この庭園は、庭園自体として意匠、依存度、管理の点で、江戸時代後期の伝統的日本庭園の典型として優れているばかりでなく、本堂・庫裏の建物、中および峰の薬師堂、背景の樹林が見事な調和を保ち、全体が名勝として十分な価値を有している。
よって、庭園および庭園と一体となって美観を呈している境内ならびに峰の薬師堂、中の薬師堂を取り込んだ寺有林を広く名勝として指定し、長く保存を図るものとする。