金剛輪寺明壽院庭園
こんごうりんじみょうじゅいんていえん
概要
金剛輪寺は、彦根市の東南方、鈴鹿山脈が湖東平野に降る山裾に位置する。北の西明寺、南の百済寺と共に、湖東三山と称され、天台宗に属する巨刹の一つである。
当時は平安時代から鎌倉・室町時代にかけて隆盛を極めてきた。天正の頃の織田信長勢による兵火から辛くも免れ、現在に伝えられた国宝・本堂、重要文化財・三重塔や二天門、本尊である重要文化財・木造十一面観音立像を始めとする諸仏などの寺宝が、当時の古い歴史をよく物語っている。
江戸時代に入ってからは、彦根藩および天海僧正を始めとする天台宗一門の庇護を受け寛永期から諸堂宇の修理・復興が続けられた。寛文四年(一六六四)山内絵図面によると堂宇は本堂を含めて七宇、坊は二四となっている。この時期の復興を主宰したのは、明壽院の前身正泉坊である。これら坊の内、現存しているのは、明壽院・西光寺・常照院のみであるが、山内には調査で判明しているだけでも二四の坊跡が認められ、盛時の寺容をうかがわせるに十分の景観を残している。
明壽院は当寺の本坊である。明壽院の名称の初見は寛文十三年(一六七三)であり、この頃、正泉坊を継いで本坊になったと考えられる。当院は、惣門と本堂の間で下方三分の一の所に位置する。建物としては、庫裡・書院、護摩堂(正徳元年(一七一一))、茶室・水雲閣(天保十一年(一八四〇))がある。庫裡・書院は明和三年(一七六六)から安永五年(一七七六)にかけて再建され、安政五年(一八五八)に改築されたものであったが、昭和五十二年に惜しくも焼失し、翌五十三年に再建されたものである。
庭園は書院の東側に面し、山裾までの約一五メートルの間を南から北へ約七〇メートルの間屈曲しながら三つの池を流れで結ぶ池庭である。南池は、仏殿書院の南および玄関書院の東から眺められる。池のほぼ中央に板石三枚を使って巧みに橋を架け、護摩堂寄りの斜面に三尊石風の石組を築き下している。小規模ながら力強い景観を呈している。池は細い流れとなって護摩堂の前を通り、水雲閣の張り出しの下から東池となる。東池は、仏殿書院の東正面にあたり、本庭園の中心である。正面奥に高所に段をもつ滝を設ける。この滝のやや右寄りの池中に中島を配し、書院側から二石および一石の橋で山裾へ結ぶ。池の南岸からは、水雲閣が高く張り出しており、中島近くの池中の石に柱を置く。また、池の左方には、多くの石を巧妙に組んだ垂直の小高い滝を設ける。池は再び細くなり、書院に迫る山斜面を廻り込むようにして、渓谷風の景を呈しながら北の池に入る。この池では、北東部の山深くに滝を設け、前面の高所に板石橋を架ける。池中には笹舟様の舟石を配する。
庭園植栽については、中島への橋脇にあるアカメヤナギの古木が景趣を添えているほか、山の斜面に手際よく植え込まれたアカマツとサツキの群れが美を添えている。なお、高所の滝石組の上部に屹立するアカマツ、スギ、ヒノキの巨木群は、狭い山容に奥深さを与えていて見事である。
作庭時期についての直接的な資料はないが、幕末における部分的な作庭の記事があること、および元禄期から作庭に造詣の深い京都曼殊院に属したことなどから類推すれば、江戸時代中期から末期にかけての書院の再建・改築に関連して作庭・改庭が度重ねて行われ、現在に至ったものといえよう。なお、力強い庭景の南池庭や、後世の改変が困難な高所の滝石組などには、江戸時代中期以前の作庭の可能性を無視できないところもあるが、後の調査・研究を待ちたい。部分的には修理・改築のあとがみられるが、狭長な山裾の地形を巧みに利用し、石を多用した堅固な滝石組や護岸の構造に優秀な技法をみることができる。数度の作庭が内在する複合的な庭園ではあるが、複合しながらも全体としての鑑賞上の価値の上で優れた庭園であることから、名勝として指定し、永く保存を図ろうとするものである。