雄勝法印神楽
おがつほういんかぐら
概要
雄勝法印神楽が伝承される雄勝町は、宮城県東北部の複雑な海岸線が太平洋に迫る南三陸沿岸にあたる。
この雄勝法印神楽は、現在、毎年定期的に行われるものとして旧暦二月十八日に同町船越【ふなこし】の船魂【ふなだま】神社をはじめ旧三月十五・十六日同町熊沢の五十鈴神社、旧三月十九日同町桑浜【くわはま】の白銀【しろがね】神社など町内九か所の神社や、三、四年目ごとに行われるものとして旧四月八日同町大浜の石【いし】神社、四月二十九日同町明神の塩釜神社など町内六か所の、合わせて一五か所の神社祭礼などで公開されている。
この神楽は、仮設舞台で演じられるが、祭礼によっては舞台は神社境内のほかに、舟魂神社や五十鈴神社祭礼などでは、宮守【みやもり】と呼ばれる民家の庭に、楽屋となる拝殿や民家の一間に隣接して設けられる。二間(約三・六メートル)あるいは二間半(約四・五メートル)四方で、高さ一メートルほどの板敷きの上に畳を敷いた四方吹き抜けの仮設舞台を角材で組み上げ、天井には二本の木材を対角に渡し、大乗と呼ぶ天蓋をつるす。四方の柱と天井の木材に笹竹を付け、各柱の間には御幣【ごへい】を下げた藁縄を巡らすなどして舞台飾りとする。また舞台から少し離して高舞台(こぶたい)あるいは龍宮殿と呼ばれる一間(約一・八メートル)四方ほどの小さな舞台を設け、舞台との間に板を渡し、また楽屋と舞台との間にも板を渡して出入り道にする。
神楽は、まず釜に湯を立てての湯立の神事の後に、神楽囃子の打ち鳴らしを行ってから始まる。楽屋と舞台を結ぶ橋の左右に、それぞれ太鼓を据え、間に笛が座り、舞人が登場する。
伝承演目は「初矢【しよや】」「岩戸開【いわとびらき】」「所望分【しよもうわけ】」「日本武【やまとたける】尊」「産屋【うぶや】」など二八演目で、いずれも仮面をつけての舞で、舞人は面をつけて詞章【ししよう】を唱え、また相手役と対話をする。「岩戸開」などの演目では「ツケ」と呼ばれる翁が、まず登場し説明役となってから本格的な舞になり、「産屋」など鬼神などが登場する舞では、二本に組んだ天井によじのぼり、逆さづりになるなどの激しい所作がある。
かつてこのあたりでは、地元で「法印【ほういん】さん」と呼ばれた修験者たちによる神楽が盛んに行われが、明治以降は、陸中地方では伝承が衰えたが、太平洋沿岸地方では旧法印を中心に地域の人びとが神楽を受け継ぎ現在に至っている。
雄勝法印神楽は、地元大浜の石神社に所蔵される『御神楽之大事』(元文四年〔一七三九〕)や『羽黒山御末流分限御改帳』(延亨三年〔一七四六〕)などの記録によって、江戸時代には「桃生十法印【ものうじゆうほういん】」と呼ばれた雄勝近隣の法印によって伝承されていたものと考えられ、これが明治から大正期に地区の氏子も加わって継承されるようになり、さらに戦後に保存会が結成されて今日に至っているものである。この神楽は、舞が四方と中央の五方を意識して同じ所作を繰り返したり、胴取り(太鼓打ち)の唱える歌と囃子に合わせて印を結び、また「トラを踏む」と呼ばれる特有の足の踏み方を守り、神楽の最後に獅子を回すなど、かつての法印による加持祈祷の様相を残している。
以上のように雄勝法印神楽は、多くの演目を良好に伝承し、さらに多くの祭礼等で公開され、またかつての祈祷的な神楽の様相を伝えているなど法印神楽の代表的なものとして、地域的特色をもち、また芸能の変遷の過程を示すものとしてとくに重要なものである。
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国指定文化財等データベース(文化庁)