央掘魔羅経巻第三(五月一日経) おうくつまらきょうまきだいさん(ごがつついたちきょう)

奈良 / 日本 

奈良時代/8世紀
紙本墨書
縦:26.5cm 全長(表紙共):954.7cm

光明皇后(701~760)が亡父藤原不比等と亡母県犬養三千代の追福のために発願し、併せて天皇の御代の福寿と臣下の忠節,さらに自らは迷い苦しむ衆生の救済と法灯の無窮を誓って発願書写せしめた一切経のうちの一巻。

願文の末尾に「天平十二年五月一日記」という日付があるところから、「五月一日経」と通称されている。その写経事業は、正倉院文書「写経請本」(『大日本古文書』巻七)によって、願文の日付をさかのぼること4年前の天平8年(736)9月29日に皇后宮職の写経所で始められ写経のための底本は、法相宗第四伝とされる玄ム和上将来の経論が用いられたことがわかる。

『続日本紀』巻第十六によると、玄ムは霊亀 2年(716)に入唐し、天平7年(735)に帰朝して、経論五千余巻および諸仏像をもたらしている。経論五千余巻とは、これ以後の一切経を書写する際の有力な基準となった唐の智昇撰『開元釈教録』(開元 18年〈 730〉成立)入蔵の五千四十八巻の一切経のことである。『開元釈教録』撰述後5年にして入蔵の一切経が将来され、これが「五月一日経」の底本に用いられた。書写事業は、天平12年5月1日に完了したわけではなく、天平勝宝元年(749)頃まで続けられ、最終的には『開元釈教録』に入蔵されていない典籍も含めて七千巻余の経典が書写されたとみられている。

その書風は、15年前後の長きにわたって書写され続けた一切経であるため一様ではないが、細みの筆線の遒勁な写経体としてとくに珍重されており、しなやかさに加えて充実しきった点画のものが多い。書風に関しては、わが国の素紙経のなかで「五月一日経」の右に出るものはないと言ってもよい。

現在でも、正倉院聖語蔵に七百五十巻,巷間に約二百五十巻の合わせて千巻近くが現存しており、奈良時代の一切経の遺品としては,現存する数が最も多い一切経である。

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