ゆあみ〈新海竹太郎作 一九〇七年/石膏原型〉
概要
若い裸婦の立像で、本像がのっていた基台正面の「ゆあみ」の陰刻の題名の示すとおり湯浴みの姿の像で、顔を右斜め下方に向け、手拭いを左胸から左大腿部・右大腿部内側に当てて立つ。
本躰は石膏造で、木芯(杉材)は右足を通り本躰台座底に出る。裸体塑形後石膏にて手拭い部分を盛る。基台は漆喰製で、表面を灰色に塗る。
本躰台座左後方に「1907/T.Shinkai」の刻銘があり、新海竹太郎が明治四十年(一九〇七)の第一回文部省美術展覧会(第三部)に出品した作品である。本展覧会は殖産興業的なこれまでの展覧会から脱して純粋な美術的な意図により開かれた展覧会で、美術の認識と普及を大きく促進、彫刻界全体の向上に貢献した。
新海竹太郎は、慶応四年(一八六八)、現在の山形市の仏師の家に生まれ、当初軍人を志したものの、在隊中に彫刻の才能を認められ、除隊後、彫刻家後藤貞行(一八四九-一九〇三年)のもとで楠木正成像の馬の製作を手伝った。その後小倉惣次郎(一八四六-一九一三年)に師事し、新しい塑造の技術を学び、のちにヨーロッパ、特にドイツベルリン美術学校に留学、西洋彫刻を実地で習得した。彼の作品としては他に「北白川宮能久親王像」(木彫原型〈明治三二年〉輪王寺、銅像〈明治三六年〉東京国立近代美術館工芸館前)などが知られている。
裸婦像としても先駆的な作品であるが、日本人をモデルとしながらも西洋のアカデミズムに倣った堅実な写実技法によって古典的な理想的人体像を表現している。基台の意匠やひらがなを崩して組み合わせた「ゆあみ」の字体などにはアール・ヌーヴォーの影響も指摘されている。一方、髪型や手拭いの表現、控えめな姿勢などは西洋彫刻の裸婦像とは異なり、日本的表現といえよう。こうした西欧美術の影響がそのまま表れる作風を避け、和洋の美術の融合による新しい彫刻を試み、新たな進路を示した意義は大きい。後世に与えた影響は見逃せず、本像は彼の代表作としてだけでなく明治彫刻後半期を代表する作品と称せられよう。