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墓守〈朝倉文夫作/石膏原型〉

概要

墓守〈朝倉文夫作/石膏原型〉

彫刻 / 明治 / 大正 / 昭和以降 / 関東 / 東京都

朝倉文夫

東京都

近代/1910

1躯

朝倉彫塑館 東京都台東区谷中7-18-10

重文指定年月日:20010622
国宝指定年月日:
登録年月日:

台東区

国宝・重要文化財(美術品)

 両手を背後に組み、わずかにうつむいて微笑する老人の立像で、明治から昭和にかけて日本の彫刻界を主導してきた朝倉文夫の作品である。
 本体台座とも石膏造になる。表面は褐色の着色がなされているが、朝倉自身の言によれば表面にペンキを塗った最初の像であるという。
 朝倉文夫は、明治十六年(一八八三)大分県直入郡竹田に生まれ、その後上京して東京美術学校彫刻選科に入学、卒業後、弱冠二五歳のときに第二回文部省美術展覧会(第三部、以下「文展」)(明治四十一年=一九〇八)に「闇」を出品し二等賞を受賞した。以後初期文展最後の第十二回(大正七年)に至るまで毎回出品し続け、第八回までは二等ないし三等賞を連続受賞した。その後も帝国美術院美術展覧会、新文展に至るまで数多くの作品を出品し続けた。また、文展等に出品し受賞を重ねる一方、大正十年(一九二一)には東京美術学校教授に就任、文展審査委員など幾多の審査委員を務め、アトリエを朝倉塾(のち朝倉彫塑塾)として開放し、昭和三十九年(一九六四)に没するまで後進の指導育成を図ってきた。
 本像は、第四回文展(明治四十三年=一九一〇)に出品された作品である。本展覧会には、荻原守衛の絶作である「女」(三等賞、重文)なども出品され、本像は最高位の二等賞を得た。
 モデルは、学生時代より馴染みのあった谷中天王寺の墓守であるという。朝倉によればモデル台に立たせると固くなるためブラブラ歩いて面白いと思った姿勢をとり、家のものが指す将棋を見て無心に笑っている自然な姿を横からとらえて作ったという。強いテーマ性のあるものではなく、老人の自然な立ち姿を表現するという自然観照による写実的な作品をあらわし、細部の仕上げにはこだわらない大胆な塑形技法によって安定感ある自然な造形表現にまとめ上げている。朝倉は、本像製作を機に客観的な自然主義に製作態度が変化したという。その後、卓抜な写実技術が評判を呼び、生涯にわたり四百点にまで及ぶ肖像彫刻を製作している。
 本像は、それまでのロダン彫刻の影響とは異なる客観的な自然主義による作品として、その後の日本における具象彫刻の主流をしめた意義や後進に与えた影響は大きく、わが国初期洋風彫塑が到達した写実主義の一頂点を示す作品として高く評価される。

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キーワード

浪漫 / 西洋 / /

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