九谷磁器窯跡
くたにじきかまあと
概要
本窯跡は、白山連峰の大日山に源を発する大聖寺川の最上流部、九谷の地に営まれた江戸時代初期の磁器窯である。本窯跡については、享保21年(1736)の大沢君山著『重修加越能大路水径』や享和3年(1803)の塚谷沢右衛門著『〓(*1)憩紀聞』にかなりくわしい記録がある。
本窯跡では、昭和45年以降、石川県教育委員会により発掘調査が行われ、大聖寺川右岸の山麓斜面に築かれた階段状の連房式登窯が確認されている。第1号窯は、燃焼室と13房の焼成室および煙道部からなり、下端の燃焼室から上端の煙道部までの水平距離および全体高は、それぞれ33.4メートル、10.75メートルにおよぶ。焼成室は砂床と1段低い火床および両者の間の火除けからなり、奥壁には煉瓦をたてて分焔柱とした通焔孔がもうけられている。焼成室床面の状況から窯体は3回ほど大規模に改修されたと考えられる。第1号窯の南約15メートルにある第2号窯は、水平距離による全長13.02メートルでやや小規模であるが焚口と煙道部の遺存状況は良好である。
2基の窯跡および物原からは磁器、陶器片や窯道具が多量に出土しているが磁器のなかでは白磁、青磁の生産が主体である。1号窯物原からは染付陶磁片がまとまってみられ、染付色見に「明暦弐歳・九谷・八月」と記されたものが出土しているので、本窯跡が文献の記述どおり明暦年間には既に築造されており、佐賀県有田地方に続いて、日本における磁器窯創始の頃の様相を示す重要な遺構であることを知りうるのである。色絵磁器の出土は僅か数点にすぎないが、本窯といわゆる古九谷伝世品とのかかわりを究明するうえで重要な手掛りとなるものである。
なお、本窯の丘陵前面には上絵用赤鉄鉱原石の出土する地点があり、また、第1号窯の北側には九谷窯再興の意図をもって文政6・7(1823・1824)年に稼働した吉田屋窯跡があるので、いずれも指定範囲に含めて保存を図る。