世界の若かりし頃 せかいのわかかりしころ

絵画  油彩画 

エドワード・ジョン ポインター (1836-1919年)
ぽいんたーえどわーどじょん
1891年
画布,油彩
76.2 x 120.6cm,120.2 x 157.0cm

  ポインターは、英国の画家、素描家、装飾デザイナー、博物館事務官として知られる。1853年から1854年に、ローマを訪れ、そこでレイトンの大画面のアカデミックな絵画に深く印象づけられた。美術についての彼の関心はローマでレイトンに出会ったことによって確立されたとされる。1855年にロイヤル・アカデミーの学校に入ったが、翌年フランス絵画への賞賛の念から、パリのグレールのスタジオに入った。ポインターは、1861年にロイヤル・アカデミー(RA)に始めて出品した。それに続いて《Faithful unto Death》(1865, Liverpool, Walker A.G.)のようなエジプトや古典的主題の小作品を制作した。彼の最初の注目すべきこの作品において、ローマ軍の兵士は噴火するヴェスヴィオス火山の赤熱に向かいながら、持ち場に就いたまま死を迎えようとしている。フィオレッリによるポンペイでの発掘の報告記事がちょうど出版され、噴火の犠牲者の死骸によってポンペイの固まった灰の中に残された空洞が見出され、その空洞から石膏による型をとるという技術によって引き起こされた興味に端を発する、社会的に大きな興味がまき起こっていた時期であった。忠誠、英雄的行為、義務感の観念は、ヴィクトリア朝時代の人々の心を動かし、ポインターの絵画はヒットした。1867年の入念な大画面の作品、《Israel in Egypt》(London, Guidhall A.G.)の成功によってポインターの評価は確立された。翌1868年古代史に基づくもう一点の大作《The Catapult》(Newcastle upon Tyne, Laing A.G.)を制作した。両作品ともポインターの考古学的詳細への関心とかなりの技術的熟達度を示している。この年彼はロイヤル・アカデミーの準会員(ARA) に選出された。1871年彼はロンドンのユニバーシティー・コレッジの最初のスレード教授(美術品蒐集家フェリックス・スレードの名を取って設立された)に任命され、その五年間の地位を活用して英国に多くのフランス美術教育の原理を紹介した。1875年に彼はサウス・ケンジントンの国立美術訓練学校(NATS) の館長・学長につき6年間務めることになる。彼のスレード講義は、1879年に『美術十講』として出版された。1877年に彼はロイアル・アカデミー会員に選出され、1881年には絵画に専心するために、サウス・ケンジントンの職を辞した。1894年から1904年にはナショナル・ギャラリーの館長を務め、1897年のテート・ギャラリーの開館にも重責を果した。1896年、ミレイが亡くなったとき、ポインターはロイアル・アカデミーの学長に選ばれ、1918年引退するまでその職にとどまった。

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