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上井覚兼日記

うわいかくけんにっき

概要

上井覚兼日記

うわいかくけんにっき

その他 / 安土・桃山 / 関東 / 東京都

東京都

桃山

27冊

東京大学史料編纂所 東京都文京区本郷7-3-1

重文指定年月日:19980630
国宝指定年月日:
登録年月日:

国立大学法人東京大学

国宝・重要文化財(美術品)

 『上井覚兼日記』は島津義久の老中であった上井伊勢守覚兼(一五四五-八九)の自筆日記である。『伊勢守日記』などとも称される。現在、島津家旧蔵の原本二七冊が東京大学史料編纂所に架蔵されている。
 上井覚兼は大隅国上井村出であり、父薫兼は薩摩国永吉郷地頭に任じられている。初名為兼、のちに覚兼と改める。島津義久に仕えて奏者となり、天正四年(一五五六)九月三日、老中職に任じられ、伊勢守と称した。同八年以後は日向国宮崎地頭となり山東地域の統括者としての地位にあった。
 本書の体裁は袋綴装冊子本で、表紙に藍地小葵襷花菱文の後補表紙を装し、題簽には「伊勢守日記『幾』」とある。原表紙は共紙表紙で、中央に外題「日記」と墨書する。本文の料紙には楮紙を用い、本文は半葉九行前後に書かれている。各冊は年あるいは月替わりによって分けられておらず、随時改冊され、紙数および判型も揃っていない。
 内容は、①天正二年八月から同四年九月までの鹿児島奏者の時期約二か年と、②天正十年十一月から同十四年十月までの島津氏老中兼宮崎地頭の時期約四か年に該当する。①の時期は「如常出仕申候」から毎日の記載が始まり、鹿児島での奏者としての役務記事で占められており、薩隅での相論などについての記述は詳細である。②の時期は地頭任地所である宮崎での日常生活に関する記載が多く、老中としての役務の場合は「出仕如常」と区別している。天正十二年十月記の巻末には「右書、當時當時任筆記置候間、後見嘲哢無是非候、殊更再覧不仕候条、落字等可有之候、御推察肝要候」とあり、本日記の性格を考えるうえで貴重である。
 この時期は戦国大名島津氏が全九州を制覇せんとする時に当たり、覚兼は自身も武将として義久の弟島津家久を輔け、日向の経営ならびに日向勢を指揮して肥前・肥後などへ出陣している。ことに天正十四年七月には筑前岩屋城攻めに奮戦し、「石打ニ合候、又面ニ鉄放一請候」(同年七月廿七日条)て負傷した。同年十月、豊後大友氏征伐のため出陣し、豊後に攻め入って各地に転戦した。豊臣政権は九州の「国郡境目」の調停者たろうとするが、島津氏は「羽柴事ハ、寔々無由来仁と世上沙汰候、當家之事者、頼朝已来無愀變御家之事候」(天正十四年正月廿三日条)と頼朝以来の家であるという自負のもとに拒否している。このほか、覚兼は文筆に長じ、蹴鞠、茶の湯、連歌、和歌など文芸の嗜みも深く、それらにかかわる注目すべき記事もある。
 『上井覚兼日記』は武人の自筆になる大部な日記として稀有なものであり、日常生活や合戦などのあり様を具体的に描いて精彩に富んでおり、また茶の湯、立花等々の文芸関係の記載も多く、戦国時代末期の史料として政治・経済史上および文化史上にきわめて価値が高い。なお、附の『伊勢守心得書』は武人としての心得を自叙伝風に著したものであり、また『天正四年正月中御規式之日帳』は本日記の欠を補うとともに島津氏の正月の規式を詳細に記載して貴重である。

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キーワード

島津 / 自筆 / / 日記

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