宝満山 ほうまんざん

その他の画像全3枚中3枚表示

社寺跡又は旧境内 / 平安  鎌倉  南北朝  室町  安土・桃山  江戸 / 九州 

福岡県
古代,中世,近世
福岡県太宰府市
指定年月日:20131017
管理団体名:
史跡名勝天然記念物

宝満山(標高829メートル)は大宰府の北東に位置する山である。有明海に注ぐ宝満川と玄界灘に注ぐ宇美川、御笠川を分ける水分りの山で、古くからの信仰の山として知られる。山頂に竈門神社上宮、麓に下宮、8合目に堂舎はすでにないが、中宮跡が存在する。『扶桑略記』に延暦22年(803)、最澄が渡海の平安を祈るため、太宰府竈門山寺に薬師仏を造ったとみえ、宝満山は古く竈門山と呼ばれていた。また、承和7年(840)竈門神に従五位上が授けられ(『続日本後紀』)、『延喜式』には名神大社として竈門神社がみえる。大山寺や有智山寺等の名称も使われ、円仁は承和14年(847)帰朝し、大山寺において竈門大神のために読経を行っている(『入唐求法巡礼行記』)。八幡信仰と融合し、宮寺として社寺一体となり、のち延暦寺の末寺となっている。中世には宝満山とも呼ばれ、宝満大菩薩という仏神となり、英彦山修験道と結合して英彦山の胎蔵界に対し、金剛界の行場として、修験の山となった。また、筑前の守護武藤少弐氏が山中に城を構築し、南北朝の争乱の舞台ともなった。大友義鎮が弘治3年(1557)検地を実施し、堂舎の破壊に及んだことから、翌永禄元年以降、残った坊中(二十五坊)は西院谷地区や東院谷地区の山中に坊宅を移すこととなった。近世に入り戦国時代の荒廃からの復興がなされ、文禄3年(1594)に峰入行も復活する。寛文5年(1665)、弘有の時代に英彦山を離れて聖護院末となった。近世における山内の土地区分と管理のあり方は井本坊に残された「竈門山水帳写」に示されている。廃仏毀釈により山中の諸堂が破却され、明治4年にはすべての坊が神職に転じ、坊中は離山し…

作品所在地の地図

関連リンク

宝満山チェックした作品をもとに関連する作品を探す

英彦山
大山寺旧境内
銅製瓔珞付経筒
宇佐神宮境内
岩屋神社 境内社熊野神社本殿
ページトップへ