宝満山
ほうまんざん
概要
宝満山(標高829メートル)は大宰府の北東に位置する山である。有明海に注ぐ宝満川と玄界灘に注ぐ宇美川、御笠川を分ける水分りの山で、古くからの信仰の山として知られる。山頂に竈門神社上宮、麓に下宮、8合目に堂舎はすでにないが、中宮跡が存在する。『扶桑略記』に延暦22年(803)、最澄が渡海の平安を祈るため、太宰府竈門山寺に薬師仏を造ったとみえ、宝満山は古く竈門山と呼ばれていた。また、承和7年(840)竈門神に従五位上が授けられ(『続日本後紀』)、『延喜式』には名神大社として竈門神社がみえる。大山寺や有智山寺等の名称も使われ、円仁は承和14年(847)帰朝し、大山寺において竈門大神のために読経を行っている(『入唐求法巡礼行記』)。八幡信仰と融合し、宮寺として社寺一体となり、のち延暦寺の末寺となっている。中世には宝満山とも呼ばれ、宝満大菩薩という仏神となり、英彦山修験道と結合して英彦山の胎蔵界に対し、金剛界の行場として、修験の山となった。また、筑前の守護武藤少弐氏が山中に城を構築し、南北朝の争乱の舞台ともなった。大友義鎮が弘治3年(1557)検地を実施し、堂舎の破壊に及んだことから、翌永禄元年以降、残った坊中(二十五坊)は西院谷地区や東院谷地区の山中に坊宅を移すこととなった。近世に入り戦国時代の荒廃からの復興がなされ、文禄3年(1594)に峰入行も復活する。寛文5年(1665)、弘有の時代に英彦山を離れて聖護院末となった。近世における山内の土地区分と管理のあり方は井本坊に残された「竈門山水帳写」に示されている。廃仏毀釈により山中の諸堂が破却され、明治4年にはすべての坊が神職に転じ、坊中は離山していった。竈門神社は村社に位置づけられ、のち官幣小社に列せられる。現在は一年を通じて登山者が絶えない山となっている。
宝満山については、これまでに太宰府顕彰会によって地形測量やトレンチ調査、分布調査等が行われ、その重要性が指摘されていた。その後、山麓部において民間開発に伴う発掘調査も進められた。そうしたなか、太宰府市教育委員会は平成17年度より5ヶ年の計画で山中の悉皆的な遺構の調査を実施し、地形測量等を実施した。また、筑紫野市教育委員会も近年豪雨による崩落が進行するなかで、遺構の保全措置に努めている。
花崗岩の巨岩で構成される上宮地区においては多量の祭祀遺物が出土している。祭祀は8世紀以降に展開し、その遺物には奈良三彩や古代の銭貨も含まれ、9世紀の前半に最も盛んとなり、東崖への土器の投棄は11世紀まで行われている。沖ノ島(福岡県宗像市)における祭祀との共通性が指摘されている。下宮地区の参道南側には、平安時代末から鎌倉時代に5間4面の本体の正面に孫廂の付いた平面を有する礎石建物が造営されるが、出土遺物や柱座のある礎石の存在から8世紀にさかのぼる堂舎が存在し、文献にみえる竈門山寺の堂塔のひとつと推定される。大門地区においても平安時代後期の礎石建物が検出されている。また、沙弥證覚が承平3年(933)に造立した宝塔と考えられる遺構が、本谷地区で検出され、中宮跡の巨岩には文保2年(1318)の入峰の記録が刻されている。また、愛嶽山頂(標高442メートル)には近世の地誌に山頂の「大岳」に対して「小岳」とよばれた社有地がある。
このように、大宰府との位置関係や年代、祭祀の国家的な性格等から、宝満山は大宰府との密接な関係をもって成立した信仰の山で、最澄らが入唐する際や帰朝後の参拝の対象ともなった。中世には修験の山として発展し、戦国時代に坊中が山中に移動し、近世を通じて信仰の山として発展した。祭祀跡や堂舎跡、窟、西院谷と東院谷の坊跡などの遺構は保存状態がよく、古代から近世に至る遺跡の変遷を具体的にたどることができる。我が国の山岳信仰のあり方を考えるうえで重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。