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高梨氏館跡

たかなししやかたあと

概要

高梨氏館跡

たかなししやかたあと

史跡 / 安土・桃山 / 室町 / 鎌倉 / 南北朝 / 中部 / 長野県

長野県

中世

中野市小舘

指定年月日:20070206
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

高梨氏館跡は、長野県の北東部に位置し、長野盆地の北端、南西に向かって発達する中野扇状地の扇央部の東端、標高約380mの平地に立地する、15世紀中頃から16世紀末の方形居館跡である。館跡の約1km東側の山地には、標高688mの頂部を中心に郭、空堀が展開する鴨ヶ嶺城跡、鎌ヶ嶺城跡がある。
 館跡は東西約130m、南北約100mの規模で、四方に土塁と堀が巡る、北信地方で最大規模の館跡である。昭和61年から平成4年にかけて実施した、公園整備に伴う発掘調査によって、門跡1棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物跡7棟、庭園跡が検出され、遺存状態は良好である。土塁は幅約10m、高さは1mから3mである。堀は幅約10m、深さ3mで、断面形はV字状を呈する。
 方形館跡に伴う庭園遺構は長野県内で唯一の事例である。東西約8m、南北約6mの規模で、池の汀は岩および川原石、滝口は3個の立石で構成されている。川原石を用いた洲浜状の遺構も認められた。池の中央にはやや大きめの岩が3個配されており、中島を形成していた可能性もある。給排水に関する明確な遺構が確認されなかったことから、枯山水様式であったと推定される。
 館跡内部の発掘調査は最終遺構面の調査にとどめたが、土塁の断割り調査によって、①築地塀、②版築状の土塁、③版築状土塁を土砂で覆った土塁、の少なくとも3段階の変遷過程が確認された。出土遺物の年代幅は、14世紀後半から16世紀末までの約250年間である。現在の方形館跡とは別の形態の高梨氏以前の段階から始まり、15世紀中頃から方形館の形態で3段階の変遷をたどった。
 高梨氏は、平安末期に始まる頼季流信濃源氏の北信地方の有力な武士団で、14世紀末には善光寺周辺を本拠地としていた。その後徐々に北進し、15世紀中頃には中野地方に進出した。以後、越後の上杉氏、長尾氏との関係を強め、中野市を中心とする一帯に勢力を扶植していった。16世紀中頃に甲斐武田氏の勢力が北信地方に及ぶと、高梨氏も上杉氏を頼り、越後に退去した。16世紀末に北信地方が上杉景勝領になると、高梨氏も本領の一部を回復した。慶長3年(1598)の上杉景勝の会津に移封に伴い、高梨氏も会津へ移り、館は廃絶した。
 高梨氏の庶流に、16世紀後半に東海地方に移り、尾張藩士となった尾張高梨氏がある。17世紀後半に、高梨氏の旧譜代家臣と伝える畦上六兵衛らが、尾張高梨氏に館跡を献上した。以後、館跡は同氏の管理するところとなり、同氏は明治9年(1876)に館跡に移住した。昭和61年に館跡が同氏から中野市に寄贈され、平成3年には居宅部分も寄贈された。中野市は平成5年から13年にかけて、発掘調査等の成果に基づいて、史跡公園整備を実施し、13年11月から公開活用している。
 高梨氏館跡は、北信地方を代表する有力国人領主の本拠地の大規模な方形館跡であり、枯山水様式の庭園を持ち、3段階以上の土塁の変遷過程が把握された極めて重要な城館遺跡である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

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