旧島津氏玉里邸庭園
きゅうしまづしたまざとていていえん
概要
鹿児島市の北部丘陵、愛宕山の西麓に位置する旧島津氏玉里邸庭園は、島津家第27代当主島津斉興(1791〜1859)によって天保6年(1835)に造営されたと伝わる。敷地東半部にはかつて主屋建築群が建っていた平坦地があり「上御庭」と呼ばれる池庭が造られた。一方、西半部は一段低くなっており、「下御庭」と呼ばれる庭園と茶室が造られた。玉里邸の諸建築は明治10年(1877)の西南戦争で焼失するが、斉興の五男、島津久光(1817〜1887)が再築に着手し、明治12年(1879)に上棟した。その後、昭和20年(1945)の太平洋戦争によって茶室、長屋門、黒門を残して建造物は焼失し、庭園は灯籠などが破損したものの、大きな被害を免れた。昭和26年(1951)には鹿児島市が玉里邸跡地を買収し、昭和34年(1959)鹿児島市立鹿児島女子高等学校が移転した。この時「上御庭」は一部を残して校舎及び運動場に改修された。「下御庭」は大きな改変を受けていないことから昭和49年(1974)に「玉里邸茶室付庭園」として鹿児島市記念物(名勝)に指定された。
「上御庭」は書院座敷の南庭として造られたもので、東側に3つの築山と楕円形の園池を持つ。池に注ぐ流れの石組には海岸で浸食された石が用いられ、複数の流れから成る注ぎ口は渓流の姿を演出している。池の護岸はすべて石で組まれ、水深は浅く池底には板石が敷き詰められている。中島は亀の姿を象った岩から成り、この池が別称「亀の池」と呼ばれる由縁となっている。書院が失われた旧位置からは樹木越しのはるか南方に山を望むことができる。
「下御庭」では敷地北寄りに茶室が建ち、その南側に広く池庭が展開する。茶室の東側には渓谷を象った滝流れがあり、そこから茶室の南東隅を回り込んで南に折れ、自然石の大石橋の下を潜った後に滝となって池に注ぐ。池中には中島が一つと、小さな岩島が一つあり、西岸からは岬が延びている。池の南東部には、53個に分割して運び込まれた高さ約3m、一辺約3.5mのほぼ立方体形の巨石が配されている。また、各所に江戸時代末から明治にかけて制作されたものと考えられる十数基の石灯籠が見られ、そのうち頂部に獅子の彫刻を載せた山灯籠や、笠石に瓦・軒を浮彫りにした三重石塔型の灯籠などは、独特の意匠を持つ。園内の建築物は、明治初期に久光が再建したものと推定される茶室の他、庭園の南東には明治17年の久光の葬儀に際し棺を墓地に運ぶために新設されたと伝わる黒門が南を正面にして建つ。
書院からの鑑賞を意図して造られた「上御庭」と、回遊式の「下御庭」から成る本庭園は、江戸時代末期に造営された南九州の大名庭園として貴重である。意匠・材料などにこの地域独特の風土的特色がみられることから学術上の価値が高く、池泉を中心とする2つの庭の構成・意匠が持つ芸術上・観賞上の価値は高い。よって名勝に指定し、保護を図ろうとするものである。