高岡捺染 笹原文次関係資料
たかおかなっせん ささはらぶんじかんけいしりょう
概要
高岡捺染 笹原文次関係資料
たかおかなっせん ささはらぶんじかんけいしりょう
富山県高岡市のかつて特産であった高岡捺染の父・笹原文次関係の資料。文次の主要な業績を示す資料が網羅されている。
文次は明治後期に高岡捺染を主要な特産品にして、その生涯を通じて捺染業界の指導・発展に貢献した。
江戸時代、「高岡染」は隆盛を極めていたが、明治に入り旧来の技法を墨守していた染物業界は廃滅の危機に陥る。守山町で代々絹染業を営んでいた笹原家も、文次3才の時、父が亡くなり家業は衰える。業界の斜陽のなか成長した文次は、25才の頃(明治14年)より染色機械の改良の研究を重ねるが、同17年(1884)には破産状態に追い込まれてしまう。
しかし、同年、長年の苦労が報われ「捺染直接摺込法」の一大発明を見るに至る。これは綿友禅の量産をねらい、従来の型紙から量産に耐えうる亜鉛板型に置き換え、一方絹地にしか用いられなかった塩基性染料を改良して、木綿地に応用したものである。
「新モス友禅」といわれる文次の発明は、京友禅に見劣りせず、しかも安価であり、たちまち全国に販路を伸ばす。その間も研究・改良を重ね多くの特許権を取得し、業界の名声を高め、後進を指導した。