年未詳八月二十三日付横山英盛書状 ねんみしょうはちがつにじゅうさんにちづけよこやまひでもりしょじょう

権利者:高岡市立博物館蔵

文書・書籍 / 江戸 / 富山県 

横山英盛 (1658~1704)
よこやまひでもり
江戸時代中期前半
紙本・折紙・墨書
縦32.9㎝×横50.4㎝
1通
富山県高岡市古城1-5
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

 加賀藩年寄・八家(はっか)横山家5代の左衛門英盛(※1)の鱸二尾に対する礼状である。宛て先は越中国射水郡東海老坂村(現高岡市)五兵衛(上坂氏「役儀初代」)(※2)であり、本史料は「上坂家文書」であったことがわかる。ちなみに木倉豊信氏が『富山史壇』28号・33号にて紹介している「上坂家文書」計35点には本史料は含まれておらず、新発見史料といえるであろう。
 意訳すると、「見舞として飛脚にて鱸二尾を頂戴した。とても喜んでいる(歓然(かんぜん)=喜ぶさま)。なお(詳しくは使者の)家来からも伝える」となろうか。
 木倉氏によると、東海老坂村には「元和の頃からこの村は藩老横山家の給人知となり、その関係は藩政中期にも及び密接なものがあった」(※3)とあり、本史料はその密接な関係を示すものといえよう。
 年代は不明だが、「見廻(見舞)」とあるので、横山家3代で英盛父の忠次が没した延宝7年(1679)6月13日以前、もしくは4代で兄の玄位(はるたか)が没した、延宝9年(1681)6月16日以前のタイミングなどが考えられる。また通称の「左衛門」を名乗っているので、元禄15年(1702)4月25日の従五位下山城守叙任前とも考えられる。少なくとも英盛の没した宝永元年(1704)5月9日以前であることは確かである。
 本史料の天地(上下)には一文字(いちもんじ)らしき紙が貼り付けてあり、元は巻子であったと思われる(他の当館蔵上坂家文書2巻と似た表装)。多少の擦れ、シミなどがみられるが、状態は良好といえる。

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【釈文】

為見廻飛脚を以、
鱸二尾到来、
歓然之事候、
尚家来方ゟ可
相達候、白之
   
   (横山)左衛門
八月廿三日 英盛(花押)

     東海老坂村
       五兵衛との
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※1【横山 英盛】よこやま ひでもり
生没:万治元年(1658)~宝永元年(1704)5月9日
 加賀藩年寄、八家の一つである、横山家5代当主。名は「任風(とおかぜ)」で辞典類には掲載されている。通称は左衛門。延宝9年(1681)兄玄位の末期婿養子として家督を相続。知行3万2500石となる。元禄6年(1693)加賀藩年寄となる。同15年(1702)4月25日、従五位下山城守に叙任される。宝永元年、疱瘡に罹り5月9日金沢に没す。享年47。墓所は石川県金沢市野田山墓地。家督は末期婿養子として貴林(たかもと)が相続した。
・「横山任風」『加能郷土辞彙』日置 謙、昭和17年、p894

※2【東海老村五兵衛】ひがしえびさかむらごへえ
 「上坂家文書」を伝える上坂家は守山城の西麓の高岡市東海老坂に古くより住んだ有力農民、もしくは下級武士と思われる。のち十村分役の山廻役を長く務めた旧家である。「先祖由緒并一類附書上帳」写(役儀4代「御用留」当館蔵)によると、元禄3年(1690)五兵衛の時初めて山廻役に任命されたので、同家ではこの五兵衛を「役儀初代」としている。五兵衛は宝永3年(1706)11月に病死している。(木倉『越中史壇』33号、役儀4代「御用留」)

※3・・・木倉豊信「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号、越中史壇会、1966年3月

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