年未詳六月二十日付横山英盛書状(海老坂村五兵衛宛) ねんみしょうろくがつはつかづけよこやまひでもりしょじょう えびさかむらごへえあて

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文書・書籍 / 江戸 / 富山県 

横山英盛 (1658~1704)
よこやまひでもり
富山県高岡市
江戸時代前期 6月20日
紙本・竪紙・墨書
27.9㎝×41.0㎝
1
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-153

 加賀藩年寄・八家(はっか)横山家5代英盛(1)の書状である。宛て先は越中国射水郡東海老坂村(現高岡市)五兵衛(上坂(こうさか)氏「役儀初代」)(2)であり、本史料は「上坂家文書」であったことがわかる。ちなみに木倉豊信氏が『富山史壇』28号・33号(3)にて紹介している「上坂家文書」計35点には本史料は含まれておらず、新発見史料といえるであろう。
 意訳すると、「上田八郎右衛門と小嶋(某)が、数々の事を言ってきた趣旨を言うと、懇ろに非常に深い話という様子であった。一品を申し受けたということだ。この度はもうすぐ帰る。痛みがあり、養生をするとのことはもっともだ。なお他のことは、右の両人申し伝える。」となろうか。
 木倉氏によると、東海老坂村には「元和の頃からこの村は藩老横山家の給人知となり、その関係は藩政中期にも及び密接なものがあった」(3)とあり、本史料はその密接な関係を示すものといえよう。

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【釈文】

(端裏上書)
「〆  海老坂村五兵衛殿 左衛門」

上田八郎右衛門、小嶋□□□、段々申
達候趣申候、懇意申候談寔(実)以不浅候、
則様子申候、一品申受之事候、
今般追付罷帰、痛可有養生由
尤候、猶右両人可申伸(述)候、謹言、

 六月廿日      英盛(花押)

猶以我等儀、近年
      手ふたい物□候事、
不自由ニ而
     此紙面之分明在之
           ましく候、以上、

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1.【横山 英盛】よこやま ひでもり
生没:万治元年(1658)~宝永元年(1704)5月9日
 加賀藩年寄、八家の一つである、横山家5代当主。名は「任風(とおかぜ)」で辞典類には掲載されている。通称は左衛門。延宝9年(1681)兄玄位の末期婿養子として家督を相続。知行3万2500石となる。元禄6年(1693)加賀藩年寄となる。同15年(1702)4月25日、従五位下山城守に叙任される。宝永元年、疱瘡に罹り5月9日金沢に没す。享年47。墓所は石川県金沢市野田山墓地。家督は末期婿養子として貴林(たかもと)が相続した。
・「横山任風」『加能郷土辞彙』日置 謙、昭和17年、p894

2.【海老村五兵衛】えびさかむらごへえ
 「上坂家文書」を伝える上坂家は守山城の西麓の高岡市東海老坂に古くより住んだ有力農民、もしくは下級武士と思われる。のち十村分役の山廻役を長く務めた旧家である。「先祖由緒并一類附書上帳」写(役儀4代「御用留」当館蔵)によると、元禄3年(1690)五兵衛の時初めて山廻役に任命されたので、同家ではこの五兵衛を「役儀初代」としている。五兵衛は宝永3年(1706)11月に病死している。(木倉『越中史壇』33号、役儀4代「御用留」)

3.木倉豊信「上坂家文書」『越中史壇』28号、越中史壇会、1964年3月。同「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号、越中史壇会、1966年3月

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