前田利長公之像
まえだとしながこうのぞう
概要
長谷川義起原型の加賀前田家2代当主・前田利長の座像である。台座の右後に「義起作」と彫銘がある。高岡市美術作家連盟旧蔵で市制60周年記念買上作品である。資料の保存状態は良好である。
<長谷川義起(はせがわよしおき)>
生没年:明治25年(1892)3月3日~昭和49年(1974)2月20日
大正・昭和期の彫刻家。本名勝之。射水郡大島村(現射水市)に生まれる。父・善孝の二男。明治43年(1910)富山県立工芸学校(現県立高岡工芸学校)卒業後、大正4年(1915)東京美術学校彫刻科本科卒。同校で高村光雲に師事。同9年第2回帝展に「霊光」が初入選以来官展に出品し、昭和5年(1930)第12回帝展出品「円盤」が推薦となり、以後無監査となった。戦後は日展で審査員・評議員をつとめたほか、日本彫塑クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。作品には、大正11年(1921)の帝國教育塔の懸賞浮彫に1等入選した「明暗」を除いて、スポーツことに相撲関係のものに特技を発揮した。昭和18年(1933)の帝展で発表した「国技」は政府買上げとなった(銅像は、高岡古城公園三の丸に昭和14年造立されたが供出にあい、のち昭和13年第2回文展無鑑査出品の「四ツ」が射水神社前に造立)。昭和49年(1974)紫綬褒章受章。作品に「四ツ(梅ケ谷、常陸山)」「両構(力士)」「大鵬像」などがある。インフルエンザによる肝炎の為、東京都豊島区千川1-2の自宅で死去。多摩霊園に埋葬されている。享年82。
<参考文献>
・富山大百科事典編集事務局編『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社,1994年