山水六景詩画屏風 さんすいろっけいしがびょうぶ

権利者:高岡市立博物館蔵

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日本画 / 江戸 / 富山県 

画:寺島蔵人(応養)、詩:中島棕隠 (寺島:安永5~天保8、中島:安永8~安政2)
てらしまくらんど(おうよう)、なかじまそういん
富山県高岡市
画:江戸後期、詩:弘化2年(1845)/寺島:1776~1837、中島:1779~1855
絹本著色・墨書
各本紙:119.0㎝×45.0㎝
6曲1双
富山県高岡市
資料番号 3-01-01-35
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

 能吏として知られる加賀藩士・寺島蔵人は「応養」と号する画人でもある。その蔵人の山水図に中島棕隠が賛として詠んだ漢詩を交互に屏風仕立てにしたものである。
 蔵人の画は越中砺波郡福光(富山県南砺市)の素封家・石崎無莫(善右衛門)が所有していた。弘化2年(1845)、棕隠が石崎家に滞在した際に無莫斎の依頼で棕隠が詠んだ七言律詩(七律)十首と跋文(左隻第6扇)が表装されている。

 蔵人は1803~06年、高岡町奉行を務めていたが、在任中の1804年に時鐘を鋳造した。この時鐘は蔵人の祖父・五郎兵衛がやはり高岡町奉行であった時に発案し、天明2年(1782)3月、藩の許可を得ていたが転任し、果たせなかったものであった。
 時鐘は二番町の町会所で撞かれていたが、割れ目が生じたため坂下町の鍋屋仁左衛門が私財を投じて1806年に改鋳した(現大仏寺蔵/高岡市指定文化財)。


<中島棕隠 漢詩《七絶》及び跋文>

【翻刻】

青壁須防俗客攀
悪詩為疥不勝刪
蕨肥抽尽巻巻葉
榴綻争開灼灼顔
漏屋添茅十数杷
晴堦曬薬二三間
事清自是非遊惰
只怕炎埃罕出山

青壁(せいへき)須(すべか)らく俗客(ぞくかく)の攀(よず)るを防(ふせ)ぐべし、
悪詩(あくし)疥(かい)を為せば刪(けず)るに勝(た)えず、
蕨(わらび)肥(こ)えて抽(ぬ)き尽(つ)くす巻(けん)々たる葉
榴(ざくろ)綻(ほころ)びて争い開く灼(しゃく)々たる顔
漏屋(ろうおく)に茅(かや)を添(そ)う十数杷(わ)、
晴堦(せいかい)に薬を曬(さら)す二三間、
事は清くして自ら是れ遊惰(ゆうだ)に非(あら)ず
只、炎(えん)埃(あい)を怕(おそ)れ、山を出(い)づること罕(まれ)なり、


樗檪経年悦折攀     
咲他桐梓飽□刪
清涼世界風殫力
紫翠団窩雲撲顔
却扇全忘三伏半
卸幮何似九衢間
隠棲咸族逢茲快
敢媿何家大小山

樗檪(ちょれき)年を経(へ)て、折攀(せっぱん)を悦ぶ
咲(わら)う他の桐梓(とうし)の□(そう)刪(さん)に飽(あ)くを
清涼(せいりょう)の世界、風、力を殫(つ)くし
紫璻(しすい)、團窩(だんか)の雲、顔を撲(う)つ
扇(おうぎ)を却(しりぞ)けて、全く三伏(さんぷく)の半(なかば)を忘れ
幮(とばり)を卸(おろ)して何ぞ九衢(きゅうく)の間に似(に)ん
隠棲(いんせい)の咸(かん)族(ぞく)、茲(こ)の快に逢う
敢えて媿(は)じん何家(かけ)、大小の山に、


梅天多雨阻幽攀
幾処崩厓兀如刪
結夏鄰僧収静迹
闖巣雛燕有嬌顔
水螢蘸焔清漪曲
風竹篩涼嫩翠間
陶令徒誇北□睡
寧知高趣在青山

梅天(ばいてん)多雨にして幽攀(ゆうはん)を阻(はゞ)む
幾処かの崩厓(ほうがい)、兀(こつ)として刪(けず)れるが如し
結(けつ)夏(げ)の鄰(りん)僧(そう)、静迹(せいせき)を収む
巣に闖(はいりこ)む雛(すう)燕(えん)、嬌(きょう)顔(がん)あり、
水螢(すいけい)、焔を蘸(ひた)す、清漪(せいい)の曲、
風竹、涼を篩(ふる)う、嫩(どん)翠(すい)の間、
陶令(とうれい)、徒(いたず)らに誇る北(ほく)□(そう)の睡、
寧(いず)くんぞ知らん高趣(こうしゅ)の青山(せいざん)に在るを


巌芝慣看不思攀
一任家童和草刪
修筧引泉仍旧脉
補籬移竹接蒼顔
涼蟾漉影飛嵐上
吠蛤弄聲新水間
吟歩偶撈挙大石
痴情子細品盆山

巌(がん)芝(し)、看るに慣れて攀(よず)るを思わず
一任す家(か)童(どう)の草を和して刪(けず)るを
筧(かけひ)を修め、泉を引き、旧脉(きゅうみゃく)に仍(よ)る
籬(まがき)を補い竹を移して、蒼(そう)顔(がん)に接す、
涼蟾(りょうせん)、影を漉(こ)す、飛(ひ)嵐(らん)の上、
吠(はい)蛤(こう)、聲を弄(ろう)す、新水(しんすい)の間、
吟歩(ぎんほ)して偶々撈(と)る挙大の石
痴情(ちじょう)子(し)細かに盆山(ぼんさん)を品(ひん)す


松蘿一路絶躋攀
屬熱事情都若刪
書癖誰妨清夏課
花顚無復昨来顔
喜晴栗鼠危梢末
語月秧鶏残夢間
近日小軒宜蚤起
爽藍涼碧満眸山

松蘿(しょうら)、一路躋攀(せいはん)を絶(た)つ
熱に屬する事情、都(みな)刪(けず)るが若(ごと)し
書癖(しょへき)誰か妨(さまた)げん、清(せい)夏(か)の課
花顚(かてん)、復(ま)た無し、昨来(さくらい)の顔、
晴を喜ぶ栗鼠(りす)は危梢の末、
月に語る秧(おう)鶏(けい)は残夢の間、
近日、小軒、宜(よろ)しく蚤起(そうき)すべし、
爽(そう)藍(らん)涼(りょう)碧(へき)、満眸(まんぼう)の山、


新菓低枝漸可攀
高蓬没屋不堪刪
簾疎過雨留斜脚
水近微風吹睡顔
冷熱嘗慚論我分
僊凡自咲占其間
片雲何似城中看
出尽奇峰緩抱山

新菓(しんか)枝に低く漸く攀(よず)る可く
高蓬(こうほう)、屋を没して刪るに堪えず
簾(れん)、疎(そ)にして過(か)雨(う)、斜(しゃ)脚(きゃく)を留(とゞ)む
水、近くして微風(びふう)、睡(すい)顔(がん)を吹く
冷熱嘗(か)つて慚(は)づ、我が分を論ずるを
僊(せん)凡(ぼん)、自ら咲(わら)う、其の間を占むるを
片雲、何ぞ似(に)ん、城中に看るに
奇(き)峰(ほう)出し尽(つ)くして緩(ゆる)やかに山を抱く


老覚臥遊優渉攀
勝区図志試修刪
林隠豈怯炎威鑠
屋号須将涼字顔
眠美松琴渓籟底
賞当石竹水花間
偶聞浴鼓思僧寺
欲誘樵童未下山

老いて覚ゆ臥遊(がゆう)、渉攀(しょうはん)に優(まさ)るを
勝区(しょうく)の図(ず)志(し)、試みに修刪(しゅうさん)す
林隠豈に怯(おび)えん、炎威(えんい)鑠(よわ)る、
屋号須(すべか)らく将(もち)ゆべし、涼(りょう)字(じ)の顔(がん)
眠は美(うま)し、松を琴、渓を籟としての
賞は当たる石竹水花の間、
偶(たま)々浴(よく)鼓(こ)を聞き僧寺を思い、
樵童を誘わんと欲すも未だ山を下りず


巣許雖高恥企攀
無塵無垢浄於刪
当時酷吏応誇勢
解愠薫風誰破顔
鶴夢豈遊丘壑外
蝉聲自足薜蘿間
老人銷夏莫如静
珍重蒼蒼太古山

巣(そう)と許(きょ)、高きと雖も攀(はん)を企(くわだて)てしを恥づ
無塵(むじん)無垢(むく)、刪(けず)る於(よ)りも浄(きよ)し
時に当たり酷吏(こくり)、応(まさ)に勢を誇るべし、
愠(いきどお)りを解く薫風(くんぷう)、誰か破顔(はがん)せん
鶴夢(かくむ)豈に遊ばん、丘壑(きゅうがく)の外
蝉聲(せんせい)自ら足る、薜蘿(へきら)の間
老人銷夏(しょうか)するに、静かなるに如(し)くは莫し、
珍重す蒼々たる太古の山、


円嶠方壺縦可攀
霜纔上鬢竟難刪
乃知五鼎供饞腹
不及一瓢当痩顔
渓獺逐魚新潦後
林猿竊筍夜雲間
渠皆随意我随意
長夏居然領碧山

円嶠(えんきょう)、方(ほう)壺(こ)、縦(たと)い攀(よ)ず可くも
霜(しも)、纔(わず)かに鬢(びん)に上れば竟(つい)に刪り難し
乃(すなは)ち知る五(ご)鼎(てい)の饞腹に供するは
及ばず一瓢の痩顔に当たるに
渓(けい)獺(だつ)魚逐(お)う、新潦(しんりょう)の後、
林(りん)猿(えん)筍を竊(ぬす)む、夜雲の間、
渠(かれ)皆随意(ずいい)、我も随意、
長夏(ちょうか)、居然として碧山を領す


憶嘗僲桂漫相攀
咲問旧名刪不刪
居静飛泉長洗耳
夏涼茂樾故怡顔
茶郷新貢応過節
蓮館芳期猶有間
無事幸編林下頌
奚同熱客説渓山

憶う、嘗つて僲(せん)桂(けい)を漫(そぞろ)に相い攀(よ)ずるを
咲(わら)いて問う、旧名刪るか刪らざるか
居(きょ)静かにして飛泉、長く耳を洗い、
夏涼しくて茂樾(もえつ)、故に顔を怡(ほころ)ばす
茶郷の新貢、応は節を過ぐべし
蓮館の芳期猶ほ間あるごとし、
無事幸いに編(あ)む、林下の頌、
奚(いず)くんぞ同じからん熱客の渓山を説くに


<跋文>

弘化乙巳夏余再遊越中福光村訪無莫斉主人歆留之数日主人出応養翁尽山水
数幅属以題辞因始観之筆力精詣風趣温雅大矣近時所謂文人画者流区ニ自
奇之撰余不勝欽賞為書旧作山居十律倚玉之醜所不自安也且聞翁姓寺島通稱
蔵人金府一名吏也嘗殫心于済民献治策矯時弊忠直超衆僚其所能私亦甚
親切歳歉則募遠邇旧識新交贈自画若干幅換米菜以賑窮民無告者
報国之績皆此類也惜哉晩年羅讒遠謫海島不得赦而没慷慨之士至今稱其冤
此画雖不知成于何時蓋亦恵民余業主人之賞戴之非啻臥遊可自娯焉
語云此中以真意観者諦察而可    椶隠島規 

弘化乙巳(きのとみ)の夏、余、越中福光村に再遊し、無莫斉主人を訪ね、之に歆留(きんりゅう)すること数日、主人、応養翁の画ける山水数幅を出し、属(しょく)するに題辞を以ってせり。因って始めて之を観るに筆力精詣(せいけい)、風趣(ふうしゅ)温雅(おんが)なること大なり。近時、所謂(いわゆる)文人画は流(りゅう)、区々(くく)、自ら奇なるを之れ撰ぶ、余欽賞(きんしょう)するに勝(た)えず。為(ため)に旧作せる山居(さんきょ)十律を書すも、倚玉之醜(いぎょくのしゅう)、自ら安んぜざる所なり。且つ聞けり。翁は姓は寺島、通稱は蔵人、金府の一名吏なり。嘗つて済(さい)民(みん)に心を殫(つ)くし、治策を献じ、時弊(じへい)を矯(たゞ)す、忠(ちゅう)直(ちょく)なること衆僚(しゅうりょう)を超え、其の能(よ)くする所は私(ひそか)に亦親切にして、歳歉(けん)なれば則ち遠邇(えんじ)の旧識、新交に募(つの)りて、自画(じが)若干幅を贈(おく)り米菜に換え以って窮民(きゅうみん)無告(むこく)の者を賑(にぎ)わす。報国の績は皆之の類(たぐひ)なり。惜しい哉。晩年讒(ざん)に羅(かゝ)り遠く海島に謫(たく)され、赦(ゆる)しを得ずして没せり。慷慨(こうがい)の士、今に至るも其の冤を稱す。此の画は何時に成るかを知らずと雖も、蓋(けだ)し亦た恵(けい)民(みん)の余業(よぎょう)ならん。主人の之を賞戴(しょうたい)するは啻(たゞ)に臥遊(がゆう)して自ら娯しむ可きのみに非ざるなり。語に云う、此の中に真意を以って観る者、諦察して可なり、と。





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【寺島 蔵人】てらしま くらんど
安永6~天保8年/1777~1837
 蔵人は人持組2,280石、原元成(1720~1795)の三男として生まれました。名を兢(つよし)、字を季業(きぎょう)、幼名は乙三郎、次いで此母(このも)。享和元年(1801)に寺島家の養子となって禄高450石を相続し、加賀藩の中級武士として越中高岡町奉行・定検地奉行・改作奉行・大坂借財仕法主付など、農政や財政の実務を担いました。有能な藩士であると同時に、思いやりが深く正義感の強い人物であった蔵人は、民の生活を圧迫する藩政を批判して役儀指除(やくぎさしのぞき:罷免)などの処分を一度ならず受けることもありましたが、そのたび藩政へ復帰します。文政7年(1824)に十二代藩主斉広が設置した親政機関である教諭方(きょうゆかた)に抜擢されました。しかし同年7月に斉広が急死、藩政の実権は藩主斉泰のもと年寄ら(加賀藩の最高の重職)に移りました。蔵人は斉広の遺志を継承して万民のための藩政と人材育成を訴えた口達書(こうたつしょ)を提出しますが、翌8年(1825)に役儀指除となります。以後は藩政に復帰することはありませんでしたが、蔵人の年寄政治批判は徐々に同調者を集めました。藩はこの対処として蔵人に流刑を申し渡し、天保8年(1837)蔵人は能登島へ送られます。困窮した民への慈愛にあふれていた蔵人は、配流ののちも民にたいする藩政への批判を続けましたが、病のため半年後に同地で生涯を閉じました。
 蔵人は職務に忠実で熱心に仕事に励む一方で画に親しみ、「艮嶴(こんおう)」、「静斎」、「王梁元」、「応養」などの号があります。現在遺る蔵人の作品としては山水図が最も多く、次いで竹石図があり、花鳥図も見られます。金沢市内の医師の津田菜窠、町人で書家の浅野屋秋台などの文化人との交流もあり、文化5年(1808)秋には金沢を訪れた画家の浦上玉堂を邸宅へ招きました。
(HP「武家屋敷 寺島蔵人邸」より)

【中島 棕隠】なかじま そういん
没年:安政2.6.28(1855.8.10)
生年:安永8(1779)
江戸後期の漢詩人,儒者。名は規,字は景寛,士成,通称文吉,号は棕軒,棕隠,別号画餅居士,因果居士,安穴道人(狂詩),居所を水流雲在楼,銅駝余霞楼などと称した。京都で代々儒者の家に生まれる。父は徳方,母は甲。妙法院真仁法親王の文化圏に育ち,伴蒿蹊に国学を,村瀬栲亭に儒学を授かる。「粋は文吉」ともて囃され,19歳で祇園周辺の風流を「鴨東竹枝」詞に作るなど隅におけなかったが,なぜか寛政末から江戸に下向,帰洛したのは文化11(1814)年であった。かねて増補加筆していた『鴨東四時雑咏』を上梓(1826)して彼の詩名は決定的となる。頼山陽,篠崎小竹,梁川星巌,梅辻春樵らとの交友を続けながら,かつて六如上人に称賛された清新詩を次々と『棕隠軒集』(初~4集)に披瀝し,『都繁昌記』に京風俗を活写した。傍ら『太平新曲』『太平二曲』『太平三曲』などの狂詩集も出版。幕末の不穏な政情を睨みつつ,客を招いて手ずから料理を振る舞い,書画に健筆を揮い,自邸の庭を耕しながら弟子に経書を講ずる晩年であった。<参考文献>森銑三「好事儒者中島棕隠」(『森銑三著作集』2巻),『中島棕隠集』(上方芸文叢刊6巻)(宮崎修多)
(HP「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版)

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